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桜井誠会長の心意気や良し!

鬱憤晴らしを正当化する思想の脆弱 桜井誠会長の心意気や良し! 下記は在特会の八木康洋君らその周りの複数へ送信したメール、公に発信した性格のもので私信ではない。社会の改革を自任する運動において、不特定多数へ向かって発信した言葉は公の性質を帯び、発信者はこれに対して責任を有する。その前提で、大いに議論を交わすべきと主権回復を目指す会は考えている。 このメールはあくまで発した言葉という事実に基づくのであり、主観的思いこみを排除している。 論題はあくまで具体的事実を踏まえて、道理を尽くす作法を厳守し、決して人格に触れないことである。議論はこの作法に従い、ハンドルネームではなく自らの名を名乗ったうえで、丁々発止と有意義な意見を展開しようではないか。 以下 さて、先日、桜井誠会長の生放送(12月3日)というのを拝見しました。 この中で、桜井君は西村修平を「困ったオジサン」として、「言いたいことが山ほどある」と不特定多数に向かって語りました。おそらくこの発言は、声明文「在特会の利敵行為を糾す」(11月29日)に対してのことであろう。 貴兄も承知のように、その「言いたいこと」を当の僕本人が聞きたいので会ってくれと何回伝えたか分かりません。なぜ、言うべき本人の西村修平ではなく、ニコ生放送で他人へ語るのか。よほど本人に“会えない”事情があるとしか思われない。 「困ったオジサン」と言うからには、この西村修平から余程「困った」ことをされたと解釈するしかない。西村自身が困ったことを桜井君にした覚えがない。 貴兄を通しもしたし、また声明文を公表するに先立ち、野沢君を通して何回も話し合いの場を桜井君にお願いしていた。なのに、生放送でこの西村修平に会いもせず(会えないのか?)、「言いたいことが山ほどある」とは人間が余りにも卑怯ではないか。信用失墜を招くのは僕ではなく桜井君自身ではないか。在特会幹部の八木君らはどうして諫めることが出来ないのか。 西村修平は逃げも隠れもしない。何時でも何処へでも出て行く。自分が自覚できない部分での批判は大いに受ける覚悟である。 生放送と称したネットのなかで、言いたい放題の、言い逃げするようなこすっからい真似はいい加減に止(よ)しにしたらどうだろうか。そうでないと、ますます西村修平の前に出づらくなるだろう。口八丁の言い繕いは行き場を失い、袋小路から抜け出せなくなる。その場を一回の嘘で切り抜ければ、後は嘘の上塗りでしか事態を打開できない。 再度、桜井君へ申し上げる。「困った」ことをされたのなら、「言いたいことが山ほどある」なら、西村修平は何時でも何処へでも聞きに行き、釈明の上、思い当たることであれば謝罪する。 朝鮮大学校の前で、桜井君は警察官に向かって「その南部拳銃で私を撃て」とまで絶叫した。その心意気や良し! 射殺すら恐れない桜井誠会長をして、西村修平と会うことを恐れる理由とは何か、とくと伺いたいものである。 投稿 鬱憤晴らしを正当化する思想の脆弱 『反・綺麗事』はヘイトスピーチの免罪符ではない 平成23年12月10日   主権回復を目指す会 児島謙剛   「綺麗事保守(きれいごと、キレイゴト)」という言葉がある。と言っても、『行動する~』と呼ばれる運動体の内部で使われている造語であって、一般的な用語ではない。 明確な定義があるわけではないが、「日本人は日本人らしく、正々堂々と、粛々と」の美名の下、「行儀や世間体ばかりを気にして、激しい闘争を嫌う保守派」とでも言ったところか。当然、我々から見た場合、「戦闘能力を欠いた草食動物=羊の群れ」ということで、侮蔑の対象となる。 私自身も過去に、Chinaをシナと呼ぶことを躊躇(ためら)う保守派を揶揄する一文の中で、「綺麗事保守」という言葉を用いている。 【参考】孫文こそシナ侵略主義の象徴 投稿 <なぜ“シナ”と呼ぶのか?>  ~シナという呼称の必然性~  http://nipponism.net/wordpress/?p=2348 また、日頃から「尖閣の死守」や「竹島の奪還」を勇ましく叫びながら、KKR(国家公務員共済組合連合会)によるシナ中共大使館への土地売却問題に“完全沈黙”した愛国諸氏の不甲斐なさを追及した一文においても、指弾の対象として念頭に置いていたのは「綺麗事保守」である。 【参考】保守派の「熱気」とは! 投稿 目前の侵略と闘わない「保守派」の熱気  本当の“戦い”の何たるかを自問自答せよ  http://nipponism.net/wordpress/?p=3683 いざという時に、闘うべき時に、闘わない、闘えない彼らは、社会を変革する主体には到底なり得ないであろう。 一方、最近では、この「綺麗事保守」を非難する『反・綺麗事』を、あたかも己を飾るアクセサリーのように標榜する向きが見受けられる。私は、この傾向に大変な違和感を禁じ得ない。なぜなら、そのアクセサリーを、いわゆるヘイトスピーチの濫用に対する批判への開き直り、ヘイトスピーチを正当化する“免罪符”として利用しているようにしか見えないからだ。 では、当の我々はどうであろうか? 我々『行動する運動』では、去る11月2日(水)から毎週、南朝鮮大使館に対するアンチ「水曜デモ」を敢行し、「従軍慰安婦」にまつわる歴史捏造への糾弾闘争を展開している。 もちろん、初めからスンナリと大使館の目の前に立てたわけではない。現在の形に至るまでの間に、官憲による執拗な妨害を受けたことは周知の通りだ。だが、我々は怯(ひる)むこと無く、それに立ち向かった。 とりわけ警官隊(四谷署)との熾烈な押し問答になった第2弾(=11月9日)の動画に注目頂きたい。そこでは、我々の言動が間違いなく激しいものではあるが、俗に言うヘイトスピーチは用いていないことが分かる。 【参考】『韓国水曜デモ1000回粉砕』毎週決行!韓国大使館へアンチ水曜デモ 11.9  http://www.youtube.com/watch?v=0U6gS2Y3HQ4 … 続きを読む

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原爆の日に覚える違和感

投稿   原爆の日に覚える違和感 東京裁判史観とは日米安保に依存する精神の堕落だ 外国人犯罪追放運動 小野寺秀一   今から66年前、昭和20年8月に広島と長崎に計2発の原子爆弾が投下され、人類史上最大規模の大虐殺が行われた。 歴史から永久に消え去ることのないこの世紀の大虐殺を実行したのは、中共やロシアではなくアメリカ合衆国であったことは言うまでもない。 私が原爆の日に思うのは、明らかな戦争犯罪に対して恥じぬどころか、むしろ原爆投下を正当化し正義を語るアメリカの欺瞞に対する激しい怒りである。そして、そのアメリカに自国の安全保障(すなわち自らの生存)を委ねて憚らない日本の凋落ぶりに、私は危機感とともに違和感すら覚えるのである。  ← 浦上駅:プラットフォームで黒こげ   となった母子(爆心地から南約1km) 所謂終戦という歴史の大転換期を迎えた8月になると、我が国は独特のムードに包まれ、多くのメディアや言論人達が一斉に、「あの記憶を風化させない為」「あの惨劇を繰り返さない為」あるいは「過去の日本は愚かであった」…等々の発言を繰り返す。 これらの所謂自虐的な言論が幅を利かせるのは毎度のことであり、いまや我が国の夏の風物詩のようでさえある。そういった自虐的刷り込みの繰り返しによるものかは定かでないが、所謂東京裁判史観はいまだ風化することもなく、多くの国民の中で健在である。 しかし、多くの無辜の民が虐殺されてから66年が経った今日、あれほどの殺戮をおこなったアメリカに対する日本国民の怒りは失われているのではないだろうか。 また、これは私の思い過ごしであればよいのだが、現代の日本人がアメリカに対して抱いている感情は、『怒り』ではなく『憧れ』でさえあるように私には思えてならない。 この『憧れ』こそ東京裁判史観ではないのか。断じて風化させてはならないのが民族の怒り、それを喪失した日本の精神的退廃を、無残にも惨殺された方々は何と思うのであろうか。    弟の亡骸 (なきがら) を背に火葬の順番を待つ少年 →              (写真:ジョー・オダネル) たとえ自虐史観に浸った日米安保体制下で毒され、日本がアメリカの精神的奴隷に堕したのだとしても、世紀の大虐殺を行って恥じないアメリカに対する日本民族の怒りは永遠に風化させてはならないはずである。 しかし、我が国の状況は目を覆わんばかりの惨状といえるのではないだろうか。 自虐に染まる『左』の思考の歪さを嘲る保守陣営が、所謂東京裁判史観からの脱却を勇ましく唱えつつも、アメリカ依存の現体制を容認している様はまさに矛盾に満ちており、我が国の抱える病が深刻なレベルにあることを示しているように思える。 いまや日本人は民族の怒りすら失い、自らアメリカに媚を売るまでに堕してしまったのである。愛国を唱える者達ですら愚かな幻想を抱いており、歪んだ日米安保体制の妄信からいまだに脱却することもままならない。 アメリカの戦争犯罪を徹底的に糾弾し、原爆によって無慈悲に殺害された先人の恨みをはらすべき愛国者が、自国の生存をアメリカに委任しつつも、「反日極左」達を罵倒し悦に入る様は醜悪そのものである。この有様では、現代日本を席巻しているのは反吐が出るほどの偽善であると言わざるを得ないが、そうした声はあまり聞こえない。 しかし、私はやはり原爆の日のありように違和感を覚えてならないのである。これほどまでに堕落を極めた民族が挙行する原爆の日の祈りによって、果たして犠牲者の魂が癒されるというのであろうか。 祈りによって救済されるべきが、祈る己の魂であってはならないのである。 原爆の日に祈るのであれば、幻想に漂う心地よさに溺れ自堕落に浸ってはならないし、さらに愛国を唱えるのであれば、受け容れがたい現実であっても正視しなければならない。 同盟関係にある現状でさえ無差別殺戮を正当化し、謝罪意思の欠片すら見せないのがアメリカなのである。 そのアメリカが、怒りを失い精神的に服従した日本との同盟関係を果たして対等と考えるであろうか。我が国固有の領土である尖閣諸島、竹島、北方領土に対する現在進行形の侵略に対して沈黙を決め込むアメリカが、シナやロシアの侵攻から日本を死守するという確証がどうして得られるのであろうか。 対シナには最悪を想定できても、対アメリカには最良しか適用できないのであればそれは妄信以外の何ものでもない。安全保障とは最良を想定せず、最悪を想定してこそというのは基本中の基本であるということを忘れてはならない。 つまり、いざとなればアメリカは日本を切り捨てるであろうというごく自然な発想を、我々はアメリカによる原爆投下という惨劇の記憶から導かなければならない。 愛国者であれば、今日の原爆の日のありように違和感を抱くべきである。 所謂東京裁判史観、すなわち虚構の平和からの脱却を果たし、自主独立を獲得しようとするならば、日本は歪んだ日米安保体制による搾取機構から脱却しなければならないのである。 そうした覚悟を我々が持つことが出来なければ、対等な同盟関係の構築など有り得るはずも無く、アメリカが原爆投下を謝罪することも未来永劫訪れないことを知るべきである。 日本人自身が、原爆の日が持つ意味を風化させてはならない。歴史を忘却した国家が衰退し、怒りを喪失した民族は滅びゆくのが自明の理だからである。 日本人であるならば、非道な原爆投下によって一瞬で焼き尽くされた同胞の無念と、黒い雨に打たれ悶え苦しみ亡くなられた先人の絶望と悲しみを永遠に忘れてはならない。 先人が受けたその苦しみと悲しみ、あるいは絶望を日本民族の不滅の怒りと昇華させ、それを矜持としてアメリカの欺瞞と戦うことこそが生存している日本人の使命なのである。 その戦いを貫徹する国民の宣誓こそ、真の『平和宣言』として犠牲者に捧げるべき日本民族の誓いなのである。   … 続きを読む

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『長崎の鐘』は日本人を欺く偽善の鐘である

長崎の恨みを忘れないぞ! 原爆犠牲者へ誓う!原爆を投下される過ちを二度と犯さない 弔意を示さぬままの星条旗へ向かって「ルース大使はこの写真を直視せよ!」 広島への原爆投下三日後、米国は長崎へ8月9日、広島型と異なる原爆(プルトニウム型)を投下した。推定人口24万人の内、約7万4千人が焼き殺され、被爆の後遺症で更に7万人以上が亡くなっているが詳細な数は今もって定かでない。 9日、主権回復を目指す会は政経調査会と共に米国大使館へ抗議行動を実施。管轄の赤坂署は米国大使館一帯を“封鎖”し、3人以上の抗議文提出並びに写真撮影を禁じた。 哀しいかな、これが米国の支配下におかれた屈辱の現実である。 6日同様、この日もまた、我が保守派陣営による米国大使館への抗議行動は皆無であった。8月6日、9日、原爆投下の恨みを忘れて抗議行動さえ出来ず、核武装など笑止千万ではないか。8月6日、9日と愛国保守派は何処をさまようのか。 (↓ 画像クリック拡大) 「長崎の恨みを忘れないぞ!」 米国の言いなりになって、「原爆投下」を糾す声を排除する赤坂警察署 日本人よ!同胞に加えられた米国の残虐を直視せよ 遺体を見せつけられ沈黙する警察 非戦闘員に対する残虐に米国は一分の申し開きも出来ない 原爆犠牲者の恨みを絶対に忘れてはならない 民族の恨みを込めて米国大使宛の抗議文を読み上げる 全ての原爆犠牲者に弔意を示して 広島の原爆死没者慰霊碑の石室碑文に、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と記されてある。主語の欠けた脈絡のない碑文は偽善であるとして、心ある国民の厳しい批判を浴びて来ているが。 ところで、広く日本人に名曲として親しまれた歌謡曲に『長崎の鐘』があり、被爆地である長崎を歌っている。その歌詞は広島の碑文以上に偽善だが批判を受けないでいる。 下記はその4番目の歌詞であるが、これは広島の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と瓜二つと言っていいのではないか。しかしながら、その歌詞が広島の碑文のように批判されたことを未だ知らない。 『長崎の鐘』(昭和26年) 作詩 サトー・ハチロー  作曲 古関裕而   こころの罪を うちあけて   更け行く夜の 月すみぬ   貧しき家の 柱にも   気高く白き マリア様   なぐさめ はげまし 長崎の   あゝ 長崎の鐘が鳴る 長崎の鐘 ご存知のように古関裕而は作曲家として戦前、『露營の歌』『暁に祈る』『若鷲の歌(予科練の歌)』などで、大東亜戦争の大義を我が日本人に鼓舞してきた音楽家で有名である。戦後も『とんがり帽子』『君の名は』『ひるのいこい』『オリンピック・マーチ』などなど、童謡から歌謡曲、管弦楽曲までとこれほど日本人に親しまれ、また名曲を世に残した音楽家はいない。 炭化した同胞の遺体、性別も分からないまま火傷で苦悶する女子高生・・・、これらを直視せよ! サトーハチローと古関裕而は、何ら科(とが)もなく焼き殺された同胞に対して、一体何の「こころの罪を」うちあけろと言いたいのか。 非戦闘員の殺戮を目的にした原爆投下で同胞は焼き殺された。この犯罪に対して米国には弁明の余地など一点すらない。サトーハチローと古関裕而は、一体誰に対して「こころ罪」をうちあけろと言いたいのか。焼き殺された無辜の民は、誰に罪の許しを乞い願えばいいと言うのか。 『長崎の鐘』、これは広島の碑文と瓜二つだが、サトーハチローの詩を、古関が有り余る才能でもって見事に美しいメロディーで修飾した。偽善に甘美な曲調が修飾され、『長崎の鐘』は名曲として日本国民に定着している。 故に、今に至るまで、この偽善極まるメロディーに日本人は酔い痴れたままでいる。名曲であるからして、その偽善の度合いは計り知れず、日本人を痴呆状態にする効果は広島の碑文どころではない。 『長崎の鐘』は原爆犠牲者をなぐさめ、はげますのではなく、戦後日本人を欺く偽善の鐘である。 … 続きを読む

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