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【KKR続報】恥辱極まる敗北【シナへの領土売却】

目前の領土侵略に目を瞑った保守派の偽善 抵抗せずに奪われた日本領土 平成23年5月25日、正午、国家公務員共済組合連合会(KKR)の土地1,700坪余りがシナ大使館へ、正式に“売却”された。 KKRが組合法を無視して、震災のどさくさに紛れてシナへ都心の一等地を落札させたのだが、これに対する日本人の、特に日頃から領土の死守、奪還を叫ぶ保守派の抵抗が皆無に等しかった。 年金目減りに汲々とする国家権力(KKR)が金に目が眩んで我が国領土をシナに差し出した。 シナは何の抵抗をも受けず、都心の一等地を手中にした。見事なまでの侵略であり、日本にとって無惨な恥辱極まる敗北であった。 河野談話などと並んで、平成23年5月25日、これは日本の歴史に銘記される恥辱の記念日の一つとなるだろう。 無惨極まる屈辱の現実、つまり虚しさにも繋がるのだが、覚悟を決めて受け入れるばかりである。我々の闘いとは、いかにこの虚しさに耐え得るかに行き着くのだ。 「尖閣諸島死守」「竹島奪還」などなどの愛国用語が、尖閣諸島や竹島に対して死守とか奪還なる抽象を叫び語るのは、ある意味とても簡単で便利な用語である。 我々一国民が尖閣諸島死守、竹島奪還を叫んだとしても、尖閣も竹島も洋上遠く近づくことすら出来ない。死守しようにも、奪還しようにも出来ない。つまり不可能なのである。この現実を直視すれば、愛国保守にとって、これほど便利で簡単な用語もない。 だが今回はどうだろう。シナが手中にした領土は東京のど真ん中である。東シナ海や南シナ海の洋上に浮かぶ孤島ではない。毎日、東京都民が目の前に歩いている領土である。 都心の一等地は洋上遠くの離れ島ではない。幾らでも命を賭けて守り、奪還が出来る目の前の“領土”ではないか。 目前に命を賭ける領土が存在する。まさに愛国保守の出番だった。日頃の死守、奪還を叫ぶ真実性が愛国陣営に問われたのだが・・・。 その真実性を証明する絶好の場に、今回は日頃から領土を守れと叫んでいたこれら保守派の姿が、KKRとそれを監督する財務省前に見い出せなかった。 (↑詳しい解説は画像をクリック) 洋上遠くの離れ島なら、幾らでも人は命をかけて奪還を叫べる。なぜ叫ぶことが出来るか、それは命を賭けようにも現実、目前にないから命の賭けようがない。 しかしながら目前の都心の一等地ならば、人は具体的に己一つの命を賭ける現実に向き合わされる。 そうなのだ。 人は簡単に威勢のいい言葉を乱発して悦に入る。しかし、後日、彼らは口にしたその言葉の証明を求められる。まさに今回は死守、奪還を証明する好機だったが、最高の舞台をボイコットしたのである。 保守派を名乗る組織は目の前で行われたシナの領土侵略に全く抵抗を示さなかった。 ボイコットしたのである。 国会議員、こと領土議連などは、「国民の生命・財産・安全・国家の名誉を守る」ことが使命の筈だが・・・目前の侵略に目を瞑った。 領土の売却を危惧する国民の呼び掛けに、彼ら国会議員はとうとう応じなかった。税金で生計(たつき)を立てていることからして、不作為ともいえる犯罪行為ではないか。 しかしながら、10名そこそこの人々は財務省とKKR前に座り込んだ。また心ある遠方の方々がそれぞれの手段で、領土の切り売りに反対を叫んだ。彼らは国会議員の使命と義務を見事、その代わりに務めたのだ。 領土奪還、死守を日頃叫ぶ保守派の組織は、目の前で行われるシナの領土侵略をただ見守るだけであった。   平成23年5月25日、我が民族はこの日を、恥辱として歴史に銘記しよう。 力及ばずして倒れるは辞さないが、力尽くさずして倒れるを拒否する   ←絶滅を免れた日本人を一人でも増やす為にクリックを!

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三つの論点から原発を考える

 原発に関して、自分は核拡散防止条約に絡む軍事上の事柄のみに関心を寄せて来ただけであり、「反」「推進」いずれの立場を論ずるだけの勉強がなかった。今回初めて双方の見解などを一通り学んだ。  世上、「反」「推進」さらに「脱」が原発をめぐる大まかな立場を表しているように思える。「コスト」「環境(安全)」「安全保障」という三つの観点から考えて見たい。 【原発のコストは安いのか】  一つ目の「コスト」について言えば、ウラン1グラムの発熱量は石炭3トン分に相当するとか、エネルギー別の発電コストは原子力が5~6円と一番安いこととかになっているが、本当だろうか。  各電力会社の工事建設費並びに誘致対策費、国による巨額の交付金、見掛け倒しの事故対策費、原子力関係予算、さらには核廃棄物処理費などなど、これらが発電コストに厳密に算入されているか全く明らかにされていない。「コスト」の実体は、はなはだ信憑性に欠けると言わざるを得ない。  核廃棄物処理に関しては、青森県六ヶ所村にある日本原燃株式会社(にほんげんねん)が、一切の使用済み燃料の再処理を請け負っている。再処理を目的に設立された政府肝いりの国策会社であるが、この存在も甚だ不透明である。 【技術に絶対はない】  二つ目の「環境(安全)」だが、科学はあくまで未知の客観世界を認識する研究分野であって、科学が抽象的に万能などはあり得ない。その科学という未だ研究分野の原子力を扱いコントロールするのが技術であり、その技術に時空を越えた絶対などもあり得ない。それはあくまで現時点での限定された絶対である。安全(環境)を著しく損傷した今回の福島第一の「想定外」で、「絶対」が如何に当てにならないか証明してくれた。 【無に等しい原発の安全保障】  三つ目の「安全保障」こそ最も深刻に考えなければいけない。各地の全原発が海岸縁に建設された津波の“好餌(こうじ)”とも言える立地条件にあることだ。さらにこの原発が軍事上から見たとき、無防備のまま晒されており、戦時の場合は真っ先に攻撃の矢面に立たされる。  その結果の事態は言うまでもない。想像を絶する核汚染物質が全土を覆いつくす。国家の安全保障上、「想定外」などで済まされない。さらに忘れてならないことは、ウランの輸入は反日のオーストラリアとカナダで、全輸入の60%を占めている。燃料の自給率ゼロで、輸入に頼っている原子力がどうして「貴重な電力」に成り得るのか。 【条件的「脱原発」】  以上三つの論点からして、我が国は条件的な「脱原発」が望ましいと考える。条件的とは全発電量の一割程度とし、原子力研究は進めていく。これはシナ、ロシアなどが更なる原発推進の方向であることからして、この研究分野で遅れをとってはならないからである。 【追記】  なお、西村真悟の時事通信(平成 23 年 4 月 26 日号)は、ウランが石油と違い禁輸の恐れがないとしたうえで、「原子力による発電が必要だ」としている、しかし、そのウランという化石燃料は100%海外に依存している。現実を知らないか、故意に無視しているか分からないが、事実を挙げた道理を説きたいものである。  六ヶ所村の核廃棄物処理だが、プルトニウムを大量に含む高レベル放射性廃棄物の減衰期間は約二万年とされている。その廃棄物はガラスに封じ込め、ドラム缶で地下三百メートルに貯蔵される。二万年後のガラス、ドラム缶の存在を誰が確かめることの出来ようか。  今現在を原子力の利便につかりながら、後世にとてつもない負債を残していくことが許されていい訳がない。原発をめぐる立場の相違を越えた深刻な問題であり、誰もが避けて通ってはならない。  先人が我々に残してきたこの日本列島、地球を放蕩親父のように食い潰してはならないのである。    虫や鳥 人間さえも見かけざる 春は沈黙FUKUSHIMA第一   春の日の明るさのみを照り返す 瓦礫の上に無情の碧空        ←絶滅を免れた日本人を一人でも増やす為にクリックを!

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