カテゴリー別アーカイブ: 時評

自粛と三越劇場の品位

(※写真はクリックで拡大表示されます) 自粛と三越劇場で思ったこと この度の大震災で東京都の石原知事が、「桜が咲いたからって一杯飲んで歓談するような状況じゃない」「少なくとも夜明かりをつけて、お花見なんていうのは自粛すべきだ」(3月29日)と発言したことで物議を醸した。 被害状況の深刻さが把握されていく状況でもあり、各地の花見名所の人出は惨憺たる様相だった。 上野、千鳥ヶ淵、谷中霊園と行く機会があったが、人出はいずれも普段の年の3割くらいではなかったか。おかげで満開の、そして散りゆく華麗な桜吹雪を満喫できた。 都知事の自粛発言は、肩書きもあって花見の自粛も一気に拡大したかも知れないが、都知事の発言だけでああも自粛が浸透するとは思えない。 他人の不幸をよそに、行楽にふけるある種の“後ろめたさ”という感情を背景にしていると思われる。他人への思い遣りという道徳観念だが、この観念は日本民族に共通するいわばサブカルチャーである。 都知事とはいえ、歴とした誇り高き日本人、「自粛発言」はその日本人としてのアイデンティティーから免れ得なかった。彼も日本人なのである。 しかしながら都知事は市井の一市民ではない。一国の首相に比肩する立場にあるわけだから、その発言は重すぎる。 政治家であれば、発言の主旨を明快に述べた上で、震災復興援助の花見を訴えれば良かった。石原知事が、上野公園の花見会場に募金箱を持って回ったら、どれだけの支援が集まったことか。各地の花見名所にも同様な募金箱の設置をして見たらと。 自粛を固定的ではなく、柔軟な発想で捉えたいものである。 そうした自粛ムード最中、4月25日、日本橋の三越劇場で観劇する機会があった。知人が公演に関わっているので出かけた。余震も収まらないなか、案の定、日本橋界隈は人出もまばら、店内も各階がそれこそガラガラだった。店の話では耐震工事を徹底しているので、この度の地震では何一つ商品の落下などの損傷事故はなかったとのことである。 10数年ぶりの三越劇場、これまで気がつかないことが目に見える。 特に内部だが、レトロモダンというか和洋折衷式の装飾は贅を尽くしながら、決して華美にならない節度は成金趣味と異なる品位を醸し出している。それは三越様式と言っていいかも知れない。 舞台は『イヴ・モンタン 彼を憎んだ女と男』 (演出:野崎美子 監督・脚本:大輪茂男) 出演:安奈 淳(シモーヌ・シニョレ) 大鳥れい(エディット・ピアフ)  南海まり(マリリン・モンロー) 井上 順(ボブ) 宝塚のトップ女優に井上 順と芸達者がそろった演技は、歌唱力とあわせて見応え十分の舞台で飽きさせなかった。 舞台は脚本が命、いくら芸達者がそろったとはいえ、然るべき脚本がなければ役者はその力を発揮できない。 今回はその脚本が意表を突いた。タイトルロール(主役)のイヴ・モンタンは一切登場せず、モンタンの公私に深いつながりのあった専属ピアニスト・ボブをタイトルロールに設定してモンタンの人物像を描くのである。同様に、各三人の女優もそれぞれのモンタンを回想していく。 そして、観る側もそれぞれのモンタン像をイメージするのである。 舞台も十分楽しめたが、この観劇でもっとも感銘を受けたのはカーテンコールで挨拶した井上 順であった。通常はカーテンコールで挨拶などしないのだが・・・。 井上は 大震災の影響で、世の中が自粛、自粛で停滞しきっています。そのなかを、わざわざ三越まで芝居を観に来て頂くことを、私たちは本当に有り難く、うれしくてなりません。 出演者と共に、客席に向かって深々と頭を下げた。考えて見ればどうと言うこともないのだが、井上は政治に絡むことには触れず、舞台俳優の立場から自粛で停滞しきっている社会状況をさらり述べたのだ。演技での明快な口調とは違い、とつとつと語る言葉がそれ故に真実重く伝わった。   推薦映画(シモーヌ・シニョレ出演):『嘆きのテレーズ 』(監督マルセル・カルネ) 『天井桟敷の人々』(監督マルセル・カルネ) 『悪魔のような女』(監督アンリ・ジョルジュ・クルーゾー) 推薦図書: 『わが愛の讃歌 ― エデイット・ピアフ自伝』(エデイット・ピアフ)     ←絶滅を免れた日本人を一人でも増やす為にクリックを!

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「水の惑星」に生きる宿命

13.5億立方kmの水で地表の71%が覆われている惑星は、天文学上、知る限りでは地球のみである。 人間はもとより、地球上の全ての生物は水によって育まれているのだ。 人間が宇宙から地球をこの眼で見た最初(1961年4月12日)の一声は「地球は青かった」(ガガーリン)とされているが、この青こそ地表を覆う水である。 この地球は「水の惑星」、これ以上に的確な表現があるだろうか。 そしてこの「水の惑星」においても、我々が住む日本列島は周囲を広きに渡って海に囲まれ、且つ奇跡的とも言える地理的条件の下、豊かな降雨量に恵まれた地球上のオアシスと言っても過言ではない。 我々はこの水に全存在を、全存在とは生死であり、その生死を委ねている。委ねるのではなく握られているのである。いや、人間とは水と言ってもいい。 その水がある一定の条件で、津波に転化して凶暴な様相で自らが育んでいる人間を抹殺するのである。この度の東日本大震災の大津波だが、どのような兵器を使用したところで、これほどまで広範囲に渡り、完璧に破壊の限りを成し遂げることが出来るだろうか。 津波はもとより、幼児の水鉄砲に始まって、巨大な水力発電、果ては原発までが水に関わっている。これほど様々な形態として変化し、不思議で扱いきれない物体が他にあるだろうか。 夢にもこの水を、意のままにコントロールしているような思い上がりに陥ってはならない。人間は水に共存して頂いているのである。 ましてやこの水の惑星を、日本列島という地球のオアシスを核物質で汚染するなど許されない。「低濃度」のロジックで、福島第一の事故を誤魔化してはならないし、これは原発の是非を問う以前の問題である。   (↑クリックにて拡大)  戒めのごとく止まる一本の松は 襤褸(らんる)の姿さらして    一本の松は記憶す跡形もなき六千本の白砂青松   ※襤褸:ボロ切れ、あて布     推薦音楽: 宮城道雄『水の変態』 ラヴェル『水の戯れ』   ←絶滅を免れた日本人を一人でも増やす為にクリックを!

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阿Qも絶賛! 櫻井よしこ女史の精神的勝利法

 主権回復を目指す会の活動に参加している児島謙剛君が説得力ある論考を述べているので紹介したい。  読後の感想を一首にしたためて見た   易水の壮士を気取るますらをの悪酒に憑(つ)かれし酔ひのかなしさ        ……………………………………………………………………………………………………………………………………………………       【参考】『史記・刺客列傳』        風 蕭蕭(せうせう)として 易水(えきすゐ) 寒く ,壯士 一たび去りて 復(ま)た還(かへ)らす   <阿Qも絶賛! 櫻井よしこ女史の精神的勝利法>   「日本賛美論」に酔い痴れる保守派の恍惚  平成23年5月3日  主権回復を目指す会 児島謙剛  「酔い痴れる(よいしれる)」とは、良くできた本質を突く日本語である。 確かに、これだけ「日本賛美のフルコース」を並べ立てられれば、「保守」は嬉々として酔い痴れるであろう。彼らには「痴」の文字こそが相応しい。 4月27日に開かれた「大震災復興支援『正論』講演会」(産経新聞社主催)における櫻井よしこ女史の講演の書き起こしを拝読した。 http://sankei.jp.msn.com/life/news/110427/trd11042723000025-n1.htm (→関連リンク:http://megalodon.jp/2013-0824-1333-26/photo.sankei.jp.msn.com/essay/data/2011/04/0427seiron/) ここから見て取れるものは、まさしく今般の大震災によって浮き彫りになった「保守」の欺瞞、まやかし、ごまかしに他ならない。 櫻井女史の誤謬として、以下の3点を挙げることができる。 【1.盲目的な日本人賛美】 女史曰く、大震災を通じて見えてきた日本人の姿は、この上なく立派であり、絶望してもおかしくない中で、沈着冷静で、思いやる心を忘れず、美しい助け合いの姿を見せてくれた、とのことである。 果たして、そうであろうか? 被災地で横行した数々の姑息な「火事場泥棒」「コソ泥」、人々の善意に付け込んだ悪質な募金詐欺、自分さえ助かれば後はどうでも良いと言わんばかりの身勝手な買い占め騒動・・・これらの一体どこが「沈着冷静で、思いやる心を忘れず、美しい助け合いの姿」なのだろうか? 人の不幸に付け込む輩は何処の国にも存在する。「火事場泥棒」なる言葉は歴とした日本語ではないのか。日本人が他の外国人に比べて格段に優れているわけではないのだ。 海外メディアがいかに日本を「絶賛」しようともそれは勝手であるが、日本人自身がそれに酔い痴れている場合でないことだけは確かである。 【2.盲目的な自衛隊賛美】 女史曰く、菅首相は自衛隊に「感謝する」と言ったが、それだけでは足りず、さらなる栄誉を与えなければならない、とのことである。 現場の最前線で、自衛隊の人たちが誠実に任務を果たしてくれているというのは、確かにその通りだろう。我々日本国民一人一人が内心で彼らに感謝の心を持つことには何の異論も無い。 しかし、他でもない産経新聞の報道によってもたらされた自衛隊の姿とは、以下のようなものであった。  http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110327/plc11032720480012-n1.htm 災害とは、すなわち「戦争」であり、被災地とは、すなわち「戦場」である。 戦場で戦う兵士にとって、遺体の収容とは避けて通れない任務であり、車座で痛みを共有しなければそれを遂行できないほどの脆弱なメンタリティーであれば、我々はそこにプロ集団としての矜持を見出すことができず、「国軍」の称号を与えることなど到底できはしない。 過酷な言い方に聞こえるかもしれないが、遺体の収容に従事した自衛隊員は、プロとして当然の職務を遂行したまでのことであり、それ自体が特別な賞賛に値するわけではない。 … 続きを読む

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手放しで喜んでいいのか日本

※主権掲示板/主張欄<手放しで喜んでいいのか>なぜ暴動、略奪が起きない日本・オリジナル原稿   突然の海もりあがる夢うつつ瓦礫と化したる真昼の暗黒      震災犠牲者に黙祷     自然科学、また社会科学においてもそうだが、事物とか物事の概念はある一定の条件で反対の側へ転化する。哲学用語ではこれを対立面の統一ともいう。  この観点から、今回の震災に遭遇した日本人のメンタリティーを考えてみたい。 
 海外メディアは震災時における日本人の規律正しさ、整然とした行動、暴動、略奪に走らない民度の高さを「驚き」をもって報道した。それを受けて多くの日本人、特に「保守」派がこれをしきりに自画自賛しているが、手放しで悦に入っていいものだろうか。これを民度の高さなどで説明できるだろうか。  暴動、略奪が起きない、又は起こせないのには理由がある。起こす理由、必要、さらには起こす気力がないということでもあり、道徳律が他国に比べて特段高いからで説明できるだろうか。 
 ありとあらゆるインフラが破壊される未曾有の災害にも関わらず、被災者はそれぞれの避難施設に落ち着きさえすれば、基本的な衣食住は国家が保証してくれ、テレビや入浴などを除けば、生命を維持する最低限は整っている。少なくとも、この点において暴動、略奪を起こす理由、必要がない。危険を冒して、他人を押しのけてまで命の糧を争う必要がないのである。 
 こうした救済の形は奈良時代の光明皇后までさかのぼれる。夫である聖武天皇に強く進言して東大寺、国分寺の建立に大きな存在を示された方で、各所に救護施設にあたる「悲田院」、医療介護施設に該当する「施薬院」を設けて慈善活動を積極的に行った。  この時代は、主権回復を目指す会が推薦する図書の『穢土荘厳』(杉本苑子・文春文庫) に詳しいので是非読んで頂きたい。  古来、救護施設に収容して貰えさえすれば、当分の生命の維持は保証されるのである。これらは江戸時代まで、地震などの災害に幕府は「罹災者救恤」の特例でもって庶民の救援に関わってきた歴史がある。  集団飼育される家畜小屋の草食動物が先のことさえ考えなければ、生命を維持するエサに困ることはないように、特段の不平、不満を生じない。 
 早い話が、従順に躾られて来た日本人は特別なにも倫理観が高いとか、民度が高いのではなく、災害時に暴動を起こす必要がないからとも言える。生活、生きることに躾られた日本人は他民族に比べて、危機の際に極端に生命力が貧弱ともいえる。  被災地で頻発するこそ泥の類の窃盗事件・・・、災害のどさくさに紛れた窃盗事件の多発は現地の警察が報告するように明らかである。  ◆宮城、震災後の窃盗被害1億円 被災地で多発290件 ガソリン盗増加  http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110330/crm11033011510003-n1.htm  上記の報道のように、ここの何処に我が国が他国に自慢する民度の、倫理観の高さがあるのか、人の不幸につけ込んだ火事場ドロボー、最も卑怯な行いではないか。これを演じている卑劣漢が他でもない日本人なのである。この類いの日本人、恥を知れ!と言いたい。  なぜ、こそ泥か。集団で白昼堂々と暴動、略奪できない精神の弱さにある。だから、ただのこそ泥しかできない。暴動、略奪は善悪の是非如何を抜きにすれば、とてつもない膨大なエネルギーの発散であり、情念の爆発である。日本人には、危険を冒してまでの気力、エネルギー、情念がないといえる。他民族と比較して生命力を支える力が極端に弱いのであるが、特に「保守」を自称する側がこの点を全く自覚できていない。  民度の高さ、道徳律なる概念は民族、社会のおかれている環境(一定の条件)で対立面へ転化するものであり、右か左を選択するような単純なものではない。   定まらぬ軌跡のままに落下舞ふ わが皇国の行く末なぞらひ 国のため 生命(いのち)捧げし ひとのあり まことのこころ 映す春の灯 さくら満開の千鳥ヶ淵にて        (平成23年4月8日)     参考文献: 毛沢東『実践論・矛盾論』 杉本苑子『穢土荘厳』   … 続きを読む

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節電に思う 玉音放送を忘れるな!

忘れるな!玉音放送「耐え難きを耐え 忍び難きを忍び」 産経新聞は自民党と電力業界のご用聞きか  6日の記者会見で、首相は浜岡原発が東海地震の震源域内にあることを指摘し、「文部科学省の地震調査研究推進本部の評価によれば、30年以内にマグニチュード8程度の想定東海地震が発生する可能性は87%と極めて切迫している。防潮堤の設置など、中長期の対策を確実に実施することが必要だ」と強調した。その上で、中部電力へ停止要請すると述べた。  これを受けて中部電力は9日、臨時取締役会を開き、菅首相から要請を受けていた浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)の全面停止を受け入れることを決めた。 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110509-OYT1T00803.htm(2011年5月9日17時22分 読売新聞)  工事詳細、日程などは既に報道されているとおりで、国民に対して情報は伝達されている。  地震予知をはじめ防災など政府肝いりの各機関が口を揃えて警告を発しているのが東海地震である。静岡県~御前崎沖を震源域とする巨大地震で何時来てもおかしくないと断定している。「何時来てもおかしくない」、つまり今日でも明日にでも、今この時間に来ても不思議でないことを指している。  今来てもおかしくない、その震源地の真上に位置するのが、菅首相が停止要請した浜岡原子力発電所である。  今回の東日本大震災よりも確実に、しかも早くこの浜岡の地を襲うと国が予知しているのが東海地震、この度は順序が逆になったのである。  福島第一の事故処理さえ未だ定かでない時期に、東海地震が襲ったら正しく日本沈没そのものとなる。こうした状況を踏まえた上で、菅総理は停止要請を判断したのである。  「危ない、危ない」と言い続けられ、自民・公明の連立政権は危機への対応を何ら施さないまま、政権は民主党へと代わって今に至って来た。この度、民主党の菅総理が初めて「停止」の決断を下した。  この首相の決断に、大阪府の橋下徹知事はいち早く、「停止要請は大英断、関西の電気を融通したい」と支持を表明した。さらに特筆すべきなのが鈴木修・スズキ会長兼社長の見解である。これは国民全員で熟読したい。 【原発停止要請「正しかった」…スズキ会長】  http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866922/news/20110508-OYT1T00051.htm  菅首相が中部電力浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)の運転停止を要請したことについて、鈴木修・スズキ会長兼社長は7日、報道陣の取材に応じ、「(東日本大震災後の)福島第一原発の状況を見れば、浜岡原発が受ける被害はもっと大きくなるだろう。国の最高決定権者として正しかった」と、一定の評価を示した。  自社の生産活動などへの影響については「仮定の問題なので答えられない」とした上で、「大きな問題にならないようにみんなで協力してやっていけばいい。生活を切り下げ、質素、倹約をしていくべきだ。首相は記者会見の時に、国民に生活様式を変えてくださいと広く訴えるべきだった」と持論を展開した。 (2011年5月8日10時43分 読売新聞)  これぞ企業の社会的責任ではないのか。我々国民は見習うべきだ。  原発事故の目途すら立たない今、平時ではない。国民の生命と国土が危険に晒さらされている戦時である。目に見えない巨大な自然という敵を相手に戦争をしている。民主主義(多数決)的手法は平和時に最も理想とする政治形態だが、今は一刻を争う緊急時である。議論を費やしている時間はなく、小田原評定で災難を拡大・深化させてはならない  徳俵にかろうじて乗っているのが日本だとすれば、悠長な手続きとか根回し(利権の調整)に一国の総理が拘束されてはならない。民主主義で選任された首相は国民の信任を受けている。戦時において、国民が総理に望むのは確固とした信念に基づく決断である。決断に基づく結果は、全て総理と信任を与えた我々国民が受け入れるのである。それが民主主義ではないのか。  従って、民主主義という政治形態はある条件において、とてつもないコストを有権者は負担するのである。  自民党を利権分配集団の本家(兄貴)とすれば、分家(舎弟)に当たるのが民主党だ。どっちもどっちで、その歴史認識や外交等々、いずれに亘っても同調するところなど欠片もない。欠片どころか、真っ向から糾弾してきたが、今は平時ではなく、国民の生命と国土が危険に晒さらされている戦時である。目に見えない巨大な自然という敵を相手に戦争をしている。政争に明け暮れ、敵と戦わない国民、政治家は非国民に値する。  その「非国民」とも思われるのが保守派とされる産経新聞、8日朝刊の一面が菅総理の停止要請に、「百出する難問 拙速要請鮮明」と題して批判記事を載せた。中部電力が停止要請を受け入れれば「予想も出来ない大停電が起こる」とか、業績悪化で株主訴訟を起こされるなどと脅迫めいた内容でさえある。  「力なくこう漏らした」とする電力社員の不安に同情を示して、この記事はこう締めくくる。「唐突要請の影響は、今後さらに広がる恐れがある」と!  先の大戦、大東亜戦争を我が国民はどう戦ったのか。挙国一致体制の下、各家庭や個人は鍋釜、貴金属類を国家へ供出し、米英支蘇相手に総力戦を戦ったことを忘れはしない。国家が東日本大震災で強烈なダメージを受け、今更に東海地震という敵が牙を剥いて襲いかからんとしている。  今は戦時である。国家が貴金属の代わりに「節電」を国民に呼び掛けている。灯火管制ではなく、照明を抑えて欲しい。冷房を切るのではなく、温度を調節して欲しい、扇風機ではどうか、等々・・・。  たかが節電ではないか。その節電すら協力出来ないとする産経新聞は欲望民主主義の権化、「非国民」に値する。  産経新聞とこれに同調する日本人よ!玉音放送「耐え難きを耐え 忍び難きを忍び」を忘れたかと言いたい。  「今後さらに(不安が)広がる恐れがある」ともっともらしい理屈を並べているが、他でもない、産経新聞が警鐘を鳴らす「風評被害」を己自身で煽っているのではないのか。自民党と電力業界のご用聞き新聞に成り下がるな。 山あひの鄙(ひな)びた駅舎に風霜の華やぎ添ふる薄墨桜     ←絶滅を免れた日本人を一人でも増やす為にクリックを!

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