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手放しで喜んでいいのか日本

※主権掲示板/主張欄<手放しで喜んでいいのか>なぜ暴動、略奪が起きない日本・オリジナル原稿   突然の海もりあがる夢うつつ瓦礫と化したる真昼の暗黒      震災犠牲者に黙祷     自然科学、また社会科学においてもそうだが、事物とか物事の概念はある一定の条件で反対の側へ転化する。哲学用語ではこれを対立面の統一ともいう。  この観点から、今回の震災に遭遇した日本人のメンタリティーを考えてみたい。 
 海外メディアは震災時における日本人の規律正しさ、整然とした行動、暴動、略奪に走らない民度の高さを「驚き」をもって報道した。それを受けて多くの日本人、特に「保守」派がこれをしきりに自画自賛しているが、手放しで悦に入っていいものだろうか。これを民度の高さなどで説明できるだろうか。  暴動、略奪が起きない、又は起こせないのには理由がある。起こす理由、必要、さらには起こす気力がないということでもあり、道徳律が他国に比べて特段高いからで説明できるだろうか。 
 ありとあらゆるインフラが破壊される未曾有の災害にも関わらず、被災者はそれぞれの避難施設に落ち着きさえすれば、基本的な衣食住は国家が保証してくれ、テレビや入浴などを除けば、生命を維持する最低限は整っている。少なくとも、この点において暴動、略奪を起こす理由、必要がない。危険を冒して、他人を押しのけてまで命の糧を争う必要がないのである。 
 こうした救済の形は奈良時代の光明皇后までさかのぼれる。夫である聖武天皇に強く進言して東大寺、国分寺の建立に大きな存在を示された方で、各所に救護施設にあたる「悲田院」、医療介護施設に該当する「施薬院」を設けて慈善活動を積極的に行った。  この時代は、主権回復を目指す会が推薦する図書の『穢土荘厳』(杉本苑子・文春文庫) に詳しいので是非読んで頂きたい。  古来、救護施設に収容して貰えさえすれば、当分の生命の維持は保証されるのである。これらは江戸時代まで、地震などの災害に幕府は「罹災者救恤」の特例でもって庶民の救援に関わってきた歴史がある。  集団飼育される家畜小屋の草食動物が先のことさえ考えなければ、生命を維持するエサに困ることはないように、特段の不平、不満を生じない。 
 早い話が、従順に躾られて来た日本人は特別なにも倫理観が高いとか、民度が高いのではなく、災害時に暴動を起こす必要がないからとも言える。生活、生きることに躾られた日本人は他民族に比べて、危機の際に極端に生命力が貧弱ともいえる。  被災地で頻発するこそ泥の類の窃盗事件・・・、災害のどさくさに紛れた窃盗事件の多発は現地の警察が報告するように明らかである。  ◆宮城、震災後の窃盗被害1億円 被災地で多発290件 ガソリン盗増加  http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110330/crm11033011510003-n1.htm  上記の報道のように、ここの何処に我が国が他国に自慢する民度の、倫理観の高さがあるのか、人の不幸につけ込んだ火事場ドロボー、最も卑怯な行いではないか。これを演じている卑劣漢が他でもない日本人なのである。この類いの日本人、恥を知れ!と言いたい。  なぜ、こそ泥か。集団で白昼堂々と暴動、略奪できない精神の弱さにある。だから、ただのこそ泥しかできない。暴動、略奪は善悪の是非如何を抜きにすれば、とてつもない膨大なエネルギーの発散であり、情念の爆発である。日本人には、危険を冒してまでの気力、エネルギー、情念がないといえる。他民族と比較して生命力を支える力が極端に弱いのであるが、特に「保守」を自称する側がこの点を全く自覚できていない。  民度の高さ、道徳律なる概念は民族、社会のおかれている環境(一定の条件)で対立面へ転化するものであり、右か左を選択するような単純なものではない。   定まらぬ軌跡のままに落下舞ふ わが皇国の行く末なぞらひ 国のため 生命(いのち)捧げし ひとのあり まことのこころ 映す春の灯 さくら満開の千鳥ヶ淵にて        (平成23年4月8日)     参考文献: 毛沢東『実践論・矛盾論』 杉本苑子『穢土荘厳』   … 続きを読む

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三つの論点から原発を考える

 原発に関して、自分は核拡散防止条約に絡む軍事上の事柄のみに関心を寄せて来ただけであり、「反」「推進」いずれの立場を論ずるだけの勉強がなかった。今回初めて双方の見解などを一通り学んだ。  世上、「反」「推進」さらに「脱」が原発をめぐる大まかな立場を表しているように思える。「コスト」「環境(安全)」「安全保障」という三つの観点から考えて見たい。 【原発のコストは安いのか】  一つ目の「コスト」について言えば、ウラン1グラムの発熱量は石炭3トン分に相当するとか、エネルギー別の発電コストは原子力が5~6円と一番安いこととかになっているが、本当だろうか。  各電力会社の工事建設費並びに誘致対策費、国による巨額の交付金、見掛け倒しの事故対策費、原子力関係予算、さらには核廃棄物処理費などなど、これらが発電コストに厳密に算入されているか全く明らかにされていない。「コスト」の実体は、はなはだ信憑性に欠けると言わざるを得ない。  核廃棄物処理に関しては、青森県六ヶ所村にある日本原燃株式会社(にほんげんねん)が、一切の使用済み燃料の再処理を請け負っている。再処理を目的に設立された政府肝いりの国策会社であるが、この存在も甚だ不透明である。 【技術に絶対はない】  二つ目の「環境(安全)」だが、科学はあくまで未知の客観世界を認識する研究分野であって、科学が抽象的に万能などはあり得ない。その科学という未だ研究分野の原子力を扱いコントロールするのが技術であり、その技術に時空を越えた絶対などもあり得ない。それはあくまで現時点での限定された絶対である。安全(環境)を著しく損傷した今回の福島第一の「想定外」で、「絶対」が如何に当てにならないか証明してくれた。 【無に等しい原発の安全保障】  三つ目の「安全保障」こそ最も深刻に考えなければいけない。各地の全原発が海岸縁に建設された津波の“好餌(こうじ)”とも言える立地条件にあることだ。さらにこの原発が軍事上から見たとき、無防備のまま晒されており、戦時の場合は真っ先に攻撃の矢面に立たされる。  その結果の事態は言うまでもない。想像を絶する核汚染物質が全土を覆いつくす。国家の安全保障上、「想定外」などで済まされない。さらに忘れてならないことは、ウランの輸入は反日のオーストラリアとカナダで、全輸入の60%を占めている。燃料の自給率ゼロで、輸入に頼っている原子力がどうして「貴重な電力」に成り得るのか。 【条件的「脱原発」】  以上三つの論点からして、我が国は条件的な「脱原発」が望ましいと考える。条件的とは全発電量の一割程度とし、原子力研究は進めていく。これはシナ、ロシアなどが更なる原発推進の方向であることからして、この研究分野で遅れをとってはならないからである。 【追記】  なお、西村真悟の時事通信(平成 23 年 4 月 26 日号)は、ウランが石油と違い禁輸の恐れがないとしたうえで、「原子力による発電が必要だ」としている、しかし、そのウランという化石燃料は100%海外に依存している。現実を知らないか、故意に無視しているか分からないが、事実を挙げた道理を説きたいものである。  六ヶ所村の核廃棄物処理だが、プルトニウムを大量に含む高レベル放射性廃棄物の減衰期間は約二万年とされている。その廃棄物はガラスに封じ込め、ドラム缶で地下三百メートルに貯蔵される。二万年後のガラス、ドラム缶の存在を誰が確かめることの出来ようか。  今現在を原子力の利便につかりながら、後世にとてつもない負債を残していくことが許されていい訳がない。原発をめぐる立場の相違を越えた深刻な問題であり、誰もが避けて通ってはならない。  先人が我々に残してきたこの日本列島、地球を放蕩親父のように食い潰してはならないのである。    虫や鳥 人間さえも見かけざる 春は沈黙FUKUSHIMA第一   春の日の明るさのみを照り返す 瓦礫の上に無情の碧空        ←絶滅を免れた日本人を一人でも増やす為にクリックを!

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