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日本人の健忘症を糾す JR福知山線事故を忘れたか

投稿  <浮かれる保守派に警鐘を鳴らす> ~あの大惨事から目を背けるな~ 主権回復を目指す会 児島謙剛   シナ高速鉄道の大事故の報を受けて、相変わらず目に余るものは、予想通りと言うべきか、鬼の首を取ったようにシナを嘲笑し、はしゃぎ、浮かれる「保守」派の姿である。 我々は、そのような「保守」派に警鐘を鳴らす。 あの大惨事を忘れたのか?と。 いや、忘れたのではなく、いつもの通り、分かっていながら目を背けたいだけなのかもしれないが、そのような都合の良い“精神的勝利法”は決して許されない。 我が国・日本では、2000年代に入ってからも、重大な鉄道事故が少なくとも2回発生している。 2000年(平成12年)3月8日に中目黒で発生した営団・日比谷線の脱線衝突事故、そして、2005年(平成17年)4月25日に尼崎で発生したJR・福知山線(JR宝塚線)の脱線事故である。 前者は、死者5名、負傷者64名、後者に至っては、運転士を含む死者107名、負傷者 562名を出す未曾有の大惨事となった。 詳細については割愛するが、両者に共通しているのは、いずれも営団地下鉄(現・東京メトロ)とJR西日本という日本を代表する鉄道事業者の「営利至上主義」が招いた惨禍であるという点だ。 とりわけ後者における、あの忌まわしい「日勤教育」なる言葉の響きは、今でも生々しく我々の耳元に残っている。 何度でも繰り返す。営団もJR西日本も、歴とした我が国・日本の鉄道事業者である。2つの大事故は、紛れもない我々・日本人によって引き起こされた惨劇なのである。 この事実から目を背けてはならない。 そして、我々利用者にとって、新幹線であろうが在来線であろうが、鉄道であることに変わりはなく、事故は事故でしかない、という現実を受け止めなければならない。 福知山線脱線事故では発生当初、「置石説」なるものが真(まこと)しやかに囁かれた。囁かれたと言うよりも、当のJR西日本が囁いたのだ。さらに、今を遡ること約2年前、JR西日本による会社組織ぐるみでの事故調査委員会への接触、情報漏洩の働きかけという卑劣な「工作」が行われたことも記憶に新しい。まさに旧国鉄の亡霊そのものの企業体質ではないか。このような鉄道事業者を抱える日本の一体どこに、シナ中共の大事故を「他山の石」とせず「対岸の火事」としてせせら笑う資格があるというのか。 唯一の救いは、福知山線脱線事故の後、55日間にわたって(尼崎駅-宝塚駅間が)運休となり、現場検証と事故原因の究明が行われたことだ(※それでも、同年6月19日の運行再開は「早過ぎるのではないか」と言われた)。再発防止のために、ATS(自動列車停止装置)の改良も進められた。“教訓”と呼ぶには余りに多くの命が失われ過ぎたが、それを得ようとした姿勢が日本とシナ中共との違いである。 日本の新幹線技術が優れていることは確かだ。新幹線では、最初の開業時からATC(自動列車制御装置)という名の運転保安システムが導入されている。ATCはアナログからデジタル化を経て改良が重ねられており、強固なフェイルセーフ(fail-safe)の設計思想によって支えられているので、シナ高速鉄道のような重大事故が日本の新幹線で発生する可能性が「限りなくゼロに近い」とは言える。 だが、「ゼロである」と断言することはできない。それが人間の手によって開発された技術・システムの宿命だからだ。新幹線でさえそうなのだから、在来線に関しては、なおさら言わずもがなである。 我々は再度、「保守」派に警鐘を鳴らす。 「日本の新幹線技術は世界一優秀だ」という盲目的な賛美に酔い痴れてはならない。 どれほど優れた技術・システムを確立しようとも、それを運用する人間の側に些か(いささか)なりとも慢心が生じれば、「安全神話」など立ち所に崩壊するということを、我々は日本人である以前の「人間」として心に刻み、自戒しなければならないのである。 結びに、改めて福知山線脱線事故に言及しておく。 事故の発生時、脱線した快速列車の至近距離(※下り線)に特急『北近畿』号が接近中であったが、惨状を目撃した近隣住民の咄嗟(とっさ)の判断によって踏切非常ボタンが押されたために緊急停止し、衝突=二重事故という最悪の事態は寸前で回避された。 非常ボタンは自動的に押されたわけではない。人間が押したのだ。 安全そして“命”を、捨て去るのも、守り抜くのも、最後は「人間」なのである。   ←絶滅を免れた日本人を一人でも増やす為にクリックを!

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シナが決して盗めないもの

「日本国民の叡智と努力」だけは盗めない 投稿  <シナ新幹線が盗めないもの> ~それは「日本国民の叡智と努力」である~ 主権回復を目指す会 児島謙剛   東京駅、18・19番線ホームの階段下に、人知れず佇む一枚の碑文がある。東海道新幹線の開業を記念して飾られたものだ。 その碑文には、次の文言が刻み込まれている。(↓クリック拡大) 東海道新幹線 この鉄道は日本国民の叡智と努力によって完成された NEW TOKAIDO LINE Product of the wisdom and effort of the Japanese people 営業開始 1964 10月1日 私はこの碑文を初めて目にした瞬間、思わずハッとなった。 「琴線に触れる」とは、まさにこのことだ。中島みゆきの『地上の星』と『ヘッドライト・テールライト』の歌詞と旋律が脳裏を駆け巡る・・・そのような心境であった。 とあるブロガーの方が「この碑文には、(中略)静かな誇りが込められています」と述べられていたが、私もそれ以上の形容は無いと感じている。 先の大戦に敗れ、焼け野原、廃墟と化した瓦礫の山の中から、わずか20年も経ない短期間のうちに、世界最高の鉄道を築き上げたのだ。比類なき偉業と呼べるだろう。だが、そのことを決して声高に自画自賛しているわけではない。そこに込められているものは、まさしく「静かな誇り」である。 着目すべきは「日本国民の叡智と努力によって」の部分だ。国鉄でもなく、国鉄の重鎮や技術者の名前でもなく、この偉業の主体が「日本国民」と明記されている点である。碑文を作成した当人は、一国鉄職員としてではなく、一人の日本国民としての矜持を胸に、この文字を刻み込んだに違いない。 現在、シナ中共の“パクリ新幹線”が問題となっている。 日本からの技術供与を受けたにもかかわらず(※)、それを自国民に伝えないばかりか、独自開発=完全な「国産技術」であると強弁し、挙句の果てには、米国他での特許申請まで仕出かし、恬(てん)として恥じない。まさに“居直り強盗国家”の名に相応しいシナ中共の醜悪、ここに極まれりだ。 ※ シナ新幹線の「CRH380A型」車両は、JR東日本の「E2系1000番台」車両(=主に『はやて』で使用)をベースとする「CRH2型」車両の発展型とされているが、「発展」とは名ばかりで、実際には、安全性を度外視して勝手に「改造」したもの、と言って差し支えない そんな国家の威信をかけたシナ新幹線であるが、開業以来、トラブル続きのようである。 http://www.asahi.com/international/update/0714/TKY201107140736.html 中国高速鉄道、故障相次ぎ批判集中 手抜き工事疑う声も 開業から2週間が過ぎた北京―上海高速鉄道(1318キロ)で故障が相次ぎ、鉄道省に批判が集中している。中国共産党創立90年にあわせて、予定を1年ほど前倒しして開業したことから、手抜き工事を疑う声もある。  10日、山東省で強風と雷雨で架線がショート。12日、安徽省で電気系統が故障。13日は江蘇省で故障。信号や車両の問題とされる。  いずれも列車に数時間の遅れが出た。10日の故障では停電し、蒸し風呂になった車内で乗客の怒りが爆発。女性の客室乗務員が泣きながら対応する場面がネットで流され、プロ意識の低さに批判が集まった。遅延の際の払い戻しでも、もめている。新設したアジア最大という南京南駅では雨漏りが伝えられた。中国紙やネット上では「メンツ優先のおから(手抜き)工事だ」との指摘が出ている。 2011年7月14日 朝日新聞 さしずめ「砂上の楼閣」といったところであろうが、これぞ「想定の範囲内」であり、容易に予測できたことなので、別に驚きもしない。 というのも、私には一つの確信があったからだ。“盗作”、“パクリ”が「お家芸」であるシナ中共が、どんなに表面的な技術を盗もうとも、決して盗めないものがある・・・「日本国民の叡智と努力」だけは盗めない、という確信だ。 … 続きを読む

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日赤の“ブランド”とは

投稿 <赤十字の“ブランド”を考える>      ~ブランドとは“信頼の証”である~ 主権回復を目指す会 児島謙剛 我々が日頃、企業等の商品・サービスを選ぶ時に重要な決め手となるものが“ブランド”である。 様々な企業がブランド力の向上を目指して、いわゆるブランディングに注力し、鎬(しのぎ)を削っている。 では、“ブランド”とは何か? いざ問われると、その概念化は意外と難しいのだが、ひとつの考え方として、「ブランドとは“信頼の証”である」と定義することができる。 私事になるが、先般、私は日本赤十字社宛に1万円を募金した。イチロー選手の1億円などに比べれば微々たるものかもしれないが、人にはそれぞれ身の丈に合った寄付の仕方がある。1万円とて、決して少額というわけではない。とにかく、未曾有の困難に直面している我が同胞のために少しでも役立てて頂きたい…寄付を決めた動機は至って純粋なものであった。 銀行の窓口に行って募金の振込先を確認すると、いくつかの団体の義援金受付口座があった。その中で私が敢えて日本赤十字社を選んだ決め手は、まさに“ブランド”であった。募金の一部を手数料と称して「ピンハネ」すると言われている胡散臭い団体が社会問題化していた中で、「赤十字であれば、全額、間違いなく被災地へ送り届けてくれるだろう」という“信頼”があったからだ。 その日本赤十字社の“ブランド”が揺らいでいる。義援金の遅配を伝える週刊誌の報道内容の真偽については、よく分からない。だが、「赤十字よ、お前もか…」という心境に陥ったことは確かだ。これでは、本当に何処を信用すれば良いのか分からなくなる。 私の自宅の近所にあるスーパーでは、グループ全店を挙げて計約5,500万円の募金を集め、日本赤十字社宛に送付したとのことで、それを知らせるポスターが店内に掲示されている。何気なく目にしていたポスターであったが、今となっては、その5,500万円が果たして適切に被災地へ送り届けられているのだろうか?…と、そればかりが気になってしまう。 “ブランド”とは、いつまでも不変の絶対的なものではない。我々消費者、顧客、広くはステークホルダーからの“信頼”によって支えられている相対的な存在である。ゆえに、その“信頼”が失われれば、たちどころに損なわれてしまうものなのだ。 日本赤十字社の関係者に問いかけたい。あなた方は、あの赤い十字の印に象徴される赤十字の“ブランド”を絶対的なものであると妄信して、その上に胡座(あぐら)をかいてはいなかったか? 人々の善意によって成り立つ日本赤十字社の“ブランド”の失墜は、すなわち、我々日本国民の利益が損なわれることを意味する。従って、その失われた“信頼”の回復に全力で努めることは、日本赤十字社にとっての喫緊の責務である。 己の体面、メンツにこだわって、週刊誌を発行する出版社と感情的にやり合うことに価値は無い。ただ漠然と「事実誤認」「誹謗中傷」「名誉を著しく毀損」などと抽象的に並べ立てるのではなく、記事における具体的な日付や数値を挙げて、どこがどのように事実と異なるのか具体的に述べ、それを以って、然るべき厳重な抗議、および他の報道機関への公表を行わなければならない。 そして何より、人々の善意を預かっているという社会的責任の重みを今一度強く自覚し、「今、現在、この瞬間」支援を必要としている被災地へ、その善意の義援金を「迅速かつ確実に」送り届けることの必要性については、改めて言うまでも無いであろう。   ←絶滅を免れた日本人を一人でも増やす為にクリックを!

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孫文こそシナ侵略主義の象徴

『三民主義』とは中華思想の理論的支柱  「シナ」の呼称に関して、児島謙剛氏から投稿が寄せられている。  そのタイトルが「シナという呼称の必然性」とある。見方を変えれば「中国という呼称の必然性」もまた存在するのである。児島氏はその必然性をシナによる周辺諸国の「侵略行為を間接的に肯定すること」と述べている。  このことをもっと緻密に歴史的に解明しているのが酒井信彦先生(元東大歴史編纂所教授)である。  最近の先生の論考『侵略性の根本にある中華思想 全ての民族は「中華民族」という論理』(『撃論』富国強兵号 vol.1 2011年5月28日)に詳しい。  シナ侵略性の根本にある中華思想とその理論的支柱は、孫文の『三民主義』にあると喝破している。  大アジア主義を唱えた宮崎滔天や内田良平らは、孫文らの辛亥革命を支持・支援して来たが、この『三民主義』の侵略性には全く無抵抗だった。現在進行している中国共産党の侵略は『三民主義』の踏襲であり、中華思想とはシナ人による、シナ人のための、シナ人の侵略を指す。  シナ人の侵略と戦う上で必読の論考である。  ↓  侵略性の根本にある中華思想 全ての民族は「中華民族」という論理(酒井信彦)  http://sakainobuhiko.com/2011/06/post-167.html#extended 投稿 <なぜ“シナ”と呼ぶのか?> ~シナという呼称の必然性~   主権回復を目指す会 児島謙剛   我々「行動する運動」では、Chinaのことを“シナ”、“支那”、あるいは“シナ中共”と称している。 私は演説の際、「中国」と言う時もあるが、聴く人にとって分かりやすくするために便宜的に補足しているだけであって、あくまでも本来は“シナ”である。 これはもちろん、何となく勢いだけでそう呼んでいるのではなく、明確な理由があって意図的に用いているのだが、“シナ”が「差別的」であるとして抵抗を感じる人も少なくないようだ。そういえば、我々が池袋で「チャイナタウン建設計画反対」の街宣を行なった際、“シナ”に逆上して突っかかってきたシナ人女性もいた。 当のシナ人や反日左翼だけでなく、愛国を語る「保守」派の中にも“シナ”を「差別語」だとして敬遠する向きがあるが、これぞ、まさしく巷で言われるところの「綺麗事保守」の典型であろう。 では、なぜChinaが“シナ”なのか? 「日本人は、東シナ海、南シナ海、インドシナ半島…と普通に呼んでいる。ただそれだけだ」と言えば済む話なのだが、それでもなお納得しない声が聞かれるので、さらに掘り下げて述べておきたい。 我々が使う“シナ人”と“シナ”の概念は、漢民族および古くから漢民族が居住してきた地域を指している。後者は、明朝あるいは辛亥革命後の中華民国の支配領域とほぼ一致していると言って差し支えない。その規模は現在の中華人民共和国の「領土」には遠く及ばず、そこにはもちろん、チベット、ウイグル、内モンゴルなどは含まれない。 ところが、現在の日本語の「中国」は、漠然とチベットやウイグルなどを包含してしまっている。それを用いることは、中華人民共和国(以下、シナ中共と称す)による侵略行為を間接的に肯定することに他ならず、チベット人やウイグル人に対するこの上ない侮辱であり、差別であるとさえ言える。これこそまさに、我々が「中国」を否定し、“シナ”にこだわる所以である。 よって、近ごろ「保守」系の団体が使っている「パンダは中国の動物ではなく、チベットの動物です!」というフレーズも厳密に言えば正しくない。正しくは「パンダはシナの動物ではなく、チベットの動物です!」である。 (一般の聴衆には「中国」と言った方が分かりやすいことは確かであるが) 「平和」や「人権」を声高に連呼する左翼やカルト教団のみならず、「保守」もまた、安易な「中国」の使用が、世界最大・世界最悪の独裁国家、虐殺国家、人権蹂躙国家=シナ中共への間接的な加担であり、現在進行形の“シナ侵略主義”への幇助に他ならないことを心に銘記すべきであろう。 そして、我々「行動する運動」にとっては、日本国民に“シナ”の概念を正しく伝え、日本国内において“シナ”の呼称を今以上に一般化させていくことが、課せられた重要な使命の一つなのである。   ←絶滅を免れた日本人を一人でも増やす為にクリックを!

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国軍とは何か

朝日新聞も“認める”自衛隊の存在          共産党員を“転向”させた自衛隊の貢献 国軍(自衛隊)の圧倒的存在を示したこの度の大震災である。  その前に「国軍とは何か」を考えたい。 国軍とは 自衛隊員は国家主権の確保と共に、国民の生命、財産、安全且つ国家の名誉を守るため、自身の全存在を任務に捧げることを本分とする。 したがって、思想信条の如何に関わらず、彼らは国家の命に従い、その本分とする任務を全うするのである。ここにこそ、国軍である自衛隊の全存在がある。 全存在、つまり究極的に死をもって国家から与えられた使命を全うすることにこそ、自衛隊員の最高の名誉がある。あるのではなく、与えられなければならないのである。 下記は、朝日新聞も“認める”自衛隊の存在 朝日新聞『声』(5月22日) 「自衛隊員の献身的作業に感謝」 主婦 松村 真紀(東京都杉並区 45)   今回の大震災被災地での自衛隊の働きはメディアで見聞きしていたが、先日、テレビで改めてその献身ぶりを目の当たりに見て、言葉に尽くせないほどありがたく感じた。  毎日毎日、黙々と作業を続ける隊員たちはみな、一様に「被災者の目線に立った仕事を」と言う。そしていまだに温かい食事を取れない人々を思い、昼食は目立たぬよう、トラックの荷台でかき込むように食べている。町の人はみな感謝し、通り過ぎる自衛隊のトラックに手を合わせ深々とお辞儀する人もいるという。本当に頭が下がる。  実質的には軍隊と言える自衛隊が憲法解釈上、微妙な存在なのは事実だし、その是非は私にはわからない。しかし、リーダーシップも実行力もない政治家より、指揮系統が確立し、圧倒的な実行力を持つ自衛隊の方が今、よほど存在意義があるのではないか。自衛隊がなかったら、もっと復興作業は遅れていたに違いない。自衛隊の皆さん、ありがとう。心と体を大切に。応援しています。 もう一つ、5月7日に書かれた児島謙剛君の論考   <筋金入りの共産党員を“転向”させた自衛隊>     自衛隊員は「自衛公務員」ではない 今般の大震災および福島原発の事故を通じて、我々日本国民は、良きにつけ悪しきにつけ、改めて自衛隊の持つ圧倒的な存在感を認識するに至った。  自衛隊が逃げた! 深夜の避難所で大パニック起きていた  2011年3月17日(日刊ゲンダイ)  http://gendai.net/articles/view/syakai/129464  自衛官、原発怖くてパニック・逃走…懲戒免職  http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110419-OYT1T01266.htm  2011年4月20日(読売新聞) 上記のような目を覆い、耳を塞ぎたくなる惨状があったことは確かであり、むやみやたらと自衛隊を賛美する風潮に対して、我々は自戒を求める警鐘を鳴らしてきた。 だが、未曾有の大災害という「戦争」状態の中で、多くの自衛隊員による獅子奮迅の働きがあったこともまた事実である。 講談社発行の雑誌『g2』第7巻に興味深い記事があるので、紹介したい。 佐野眞一氏によるルポ「東日本大震災と日本の希望1」の中で、日本共産党中央委員会の元文化部長の山下文男氏(87)に関する記載がある。山下氏は、岩手県陸前高田市の病院に入院中、東日本大震災の大津波に遭遇し、九死に一生を得て救出されたのだという。 その山下氏が、自衛隊に関して言及している一部を以下に引用する。 「僕はこれまでずっと自衛隊は憲法違反だと言い続けてきたが、今度ほど自衛隊を有り難いと思ったことはなかった。国として、国土防衛隊のような組織が必要だということがしみじみわかった。とにかく、僕の孫のような若い隊員が、僕の冷え切った身体をこの毛布で包んでくれたんだ。その上、身体までさすってくれた。やさしさが身にしみた。僕は泣いちゃったな。鬼の目に涙だよ。」 87歳といえば、時代が大正から昭和へと移り変わる頃の生まれである。山下氏は自身でも「鬼」と自称されているが、明治の世を生きた先人たちの薫陶を受けた、まさに筋金入りの、バリバリの共産党員であろう。 記事では、山下氏に関して、最後にこう結ばれている。 「自衛隊配給の毛布の暖かさに自衛隊は憲法違反だと言ったのは間違いだったと主義主張をかなぐり捨てて「転向」した元日共文化部長の率直すぎるほどの率直さ」 齢(よわい)87にして、自らの信念を捨てあっけなく「転向」してしまった。この山下氏の不甲斐なさを責めることもできるが、ここでは敢えてやめておこう。 それよりも、これまで散々憲法違反と言われ、時には「暴力装置」とも呼ばれ、いわゆる「冷や飯を食わされる」状態が続いてきた自衛隊にとって、鬼の共産党員である山下氏を「転向」させたことは、まさしくこの上ない最高の“勲章”に値すると言えるのではあるまいか。 我々日本国民は今、改めて自衛隊の存在価値を噛み締めている。だからこそ、私は自衛隊を「叱咤激励」したい。 自衛隊員は国家公務員であるが、くれぐれも国民の血税を貪るだけの「自衛公務員」に成り下がってはならない。今回のような自然災害を含めた「戦争」時において、国民の生命と財産を守る最後の砦としての国軍は自衛隊を置いて他に無いのである。 このことを強く自覚し、日々の任務に邁進して頂くことを切に願う次第である。   衛兵の軍靴の響き戛戛(かつかつ)とわが優柔のためらひ切り裂く   … 続きを読む

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