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返り血を浴びる覚悟を問う(シンポ報告)

議論(論争)、批判とは何か 「行動する保守」に 返り血を浴びる覚悟はあるのか否か 満席となった会場の文京区民センター(平成26年9月21日) ※参照:シンポジウム告知 議論(論争)とは事実をあげて道理を説くことである。事実の認識に誤りがあるなら正せば良い。お互いに邪(よこしま)な考えがなければ、それによって双方の運動並びに人格が否定されたりはしない。いたずらに過ちに執着することこそ自らの品位、人格を貶める結果になる。口角泡を飛ばす議論を交わしても、そこに嘘と誹謗中傷を交えなければ、競技スポーツ終了時と同じく爽やかさが残るだけで、怨念など残りはしない。 丁々発止の議論を重ねる過程で、意見の相違が何処にあるのかが認識され、さらには一致する考えをも共有することが出来る。議論の応酬は相互の理念を互いに鍛え上げ、新たな段階へと飛躍させる。相互に有益なのである。その前提が事実をあげて道理を説く作法である。 批判とは返り血を浴びることである。返り血とは相手に発した数倍の批判を浴びることである。議論とはツイッターとか安全が保証・閉鎖されたネット空間における書き込みではない。「行動する保守」や所謂「ネット右翼/ネット左翼」に問う、君たちに公衆の面前で返り血を浴びる覚悟はあるのか否か。 我々市民運動は現場における科学実験に似ていて、予期しない状況の失敗はつきもので羞ずべきことでない。その失敗を素直に受け入れることで、運動を前進させることが可能となる。 問題は活動上の失敗を認識したうえで総括し、同類の過ちを排除する法則・理論を導き出すことである。その得た法則・理論を、活動という実践を通して再検証する意識が問われる。活動から総括へ、総括を理論に、理論を活動の場で再検証。認識における循環運動を意識的に追及することにある。 客観的事実を前に我々は謙虚でなければならず、認識上の過ちに固執する限り、己の理念並びに人格を向上させることは出来ない。これは何も市民運動のみに該当する事柄ではなく、我々の日常生活や職場でも、さらには人生おいても同様である。 シンポジウム 「在特会によって貶められた愛国運動と日章旗」 文京区民センター 平成26年9月21日 (↓ 画像クリック拡大) 「ヘイトスピーチ規制法」に反対の立場から基調講演をおこなった野村旗守氏 山口祐二郎氏は止むを得ない立場から「規制法案」に賛成 国連の勧告に従った立場から「規制法案」を支持する安田浩一氏 【動画】 シンポジウム「在特会によって貶められた愛国運動と日章旗」  (平成26年9月21日) youtube https://www.youtube.com/watch?v=sqotPXzjXJI ニコニコ動画 http://www.nicovideo.jp/watch/sm24524384 http://www.nicovideo.jp/watch/sm24524671 ※他に中継されていた方の動画も転載いたします。 http://live.nicovideo.jp/watch/lv193486666 http://live.nicovideo.jp/watch/lv194105621 ←絶滅を免れた日本人を一人でも増やす為にクリックを! ◀︎『虐日偽善に狂う朝日新聞―偏見と差別の朝日的思考と精神構造』  (酒井信彦 日新報道)  著者・酒井信彦が朝日新聞に踊らされる日本人の精神構造を解く。

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第6回名画鑑賞会『日本の夜と霧』(監督:大島 渚 松竹作品)

第6回名画鑑賞会『日本の夜と霧』 (監督:大島 渚 松竹作品) 必見・必聴! 論争は限りなく美しい 壮絶な議論の応酬を映像化した記念碑的作品 【開催趣旨】 日本人の心の繊細さ、多様性を知らずしてわが国の文化と伝統を語ることは難しい。それは感性を養う作業であり、主として我々は優れた文学作品や名画を通し、豊かな心のあり方を会得していく。 『日本の夜と霧』 昭和35年(1960年) 出演:桑野みゆき、津川雅彦、小山明子、渡辺文雄、芥川比呂志 脚本:大島渚、石堂淑朗 撮影:川又昂 音楽:真鍋理一郎 『日本の夜と霧』撮影スタッフ、この映画が封切られて4日目に社会党の浅沼稲次郎が暗殺された。同日、松竹は突然作品の公開を中止、大島はこれに抗議して松竹を退社、独立プロ『創造社』を立ち上げ、幾多の傑作を世に残した。 日米安保闘争が終了する前後、日本共産党が指導する全学連の内部抗争を描いている。一学生が党の査問に悩み、自殺に追い込まれた糾明を巡り、一般党員と支持者を官僚的にあしらう指導部の独善性と傲慢を鋭く暴き出す。映画の舞台は仲間の結婚式場。新郎新婦をはじめ、活動を共にする出席者それぞれが己の立場を主張して激しく論争を展開する。中でも、指名手配されている大田(津川雅彦)の先輩や指導部に対する追及は容赦がない。 論争の果て、己の立場を主張するそれぞれが、自らの正体を晒け出されていく。脚本、撮影などセットで短時間で制作した野心作、カメラの川俣昂がアドリブを効かせた一気呵成の撮り方で、幾分粗っぽくした画面で作品に青年らの熱気をフィルムに熱く焼き込んだ。必見・必聴!論争は限りなく美しい。 日時:平成25年6月23日(日)    17:30開場 17:45上映開始 場所:文京区民センター(2-C会議室)     東京都文京区本郷 4-15-14 03(3814)6731 地図: http://www.jca.apc.org/~monsoon/bunkyoukumincenter.htm アクセス:地下鉄 春日(大江戸線、三田線)、後楽園(丸の内線、南北線)、      JR 水道橋 ※会場負担費:300円(任意) 主催:主権回復を目指す会 連絡:西村(090-2756-8794) ←絶滅を免れた日本人を一人でも増やす為にクリックを!  

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閑話休題 梅を詠ず(毛沢東)

小石川植物園と『梅を詠ず』(毛沢東) 梅に託して革命の志を見事に詩文化 花びらをついばむメジロ、厳しい冬を耐え抜いた小鳥にとって糖度の高い花の蜜はご馳走である 春分の日、暖かい陽光に誘われて近くの小石川植物園へ観梅に、今年はことのほか寒気が厳しく開花が一ヶ月近く遅いようだった。この小石川植物園、かつては徳川家の薬草園で、映画『赤ひげ』(原作・山本周五郎 監督・黒澤明)でも有名な小石川療養所があったところ、今は東大理学部付属の植物園として維持されている。 小石川植物園の近辺には「小石川後楽園」と「六義園」があり、こちらは大名庭園とあってきめ細やかに手入れされた人工美が見事である。 一方、小石川植物園の樹木、草花は自然のままの生態で管理されており野趣にあふれている。都会の真ん中にこれほどの自然が手つかずのまま維持されていることは日本の誇りである。同園は梅の名所、春分の日は快晴に恵まれ、白梅の花びらが強い日差しに光の乱反射を呈すれば、紅梅は梅園を燃えるばかりに染め上げ、濃厚な匂いを放っていた。 (↓ 画像クリック拡大) 落梅が池を紅白に彩る小石川植物園 春の陽の紅白いろどる落梅に光の粒子とび交ふ梅林 小石川植物園は徳川家のかつての薬草園、都内有数の梅林でも知られている むせかえるような香を放つ紅梅 春の陽を目にまぶしく跳ね返す白梅 桜が日本人に親しまれている花ならば、梅はシナ人に最も愛されている心の花、梅を唐時代の詩人らは競って歌い上げた。中でも有名なのは日本人にも広く親しまれている陸游(りくゆう)、南宋第一の詩人として、北宋の蘇東坡と並称される。憂国、激情の詩人であり、権力に対峙する反骨の詩人。繊細な感覚によって生活の中の機微を題材にした多くの詩を残して人気が高い。 その陸游の代表作に「梅を詠ず」がある。その本歌取りをしたのが毛沢東だ。毛沢東の詩を論ずるにあって目にしておきたいのが、『毛沢東 その詩と人生』(竹田泰淳 竹内 実 昭和40年文藝春秋社刊)。 毛沢東は革命家であるばかりでなく、著作においても『実践論』『矛盾論』という哲学の名著の他に、『中国革命の戦略問題』『持久戦』など後世に残る軍事論文を多数残している。これらは愛国保守や右陣営の方々にも必読書として読んで頂きたい。「敵を知り己を知れば百戦たたかうも危うからず」を心に命じて。マルクス主義とか毛沢東主義のレッテル貼りでろくに著作も読まず、悦にいる自己満足は知性の劣化を招くだけだ。 毛沢東の作家としての優れた業績は余り取り上げられないが、彼の文学者として残した作品の数々は是非とも目にしておいて良いだろう。『毛沢東 その詩と人生』は彼の生い立ちに始まり、シナ革命の初期から「中ソ論争」が激しかりき1962年まで、その足跡と作品の数々を時系列に網羅している。これらの作品はシナ文学史に名を残すものばかりではないだろうか。 いわゆる保守とか右陣営には、マルクスとか毛沢東と聞いただけでアレルギー反応をおこして、一切の拒絶反応をおこす人たちが多い。しかしこれでは余りにもひ弱すぎだ。文芸作品として、優れたものは優れたものとして素直に評価すべきだろう。昨今、『海ゆかば』を巡って左翼が文句を付けてきたというが、彼らは『海ゆかば』の作品の音楽的是非を論ずるのでなく、単純に「嫌い」という感情だけであった。極めて短絡的で貧困な思考回路である。保守とか右の陣営においても、彼らの思考回路と同じにはなりたくないものである。 「卜(ぼく)算子、梅を詠ず 毛沢東」(1962年12月)は上記著書のなかでも一際心を打つ詩文である。梅に託して革命の志を見事に詩文化させている。社会革命に身を捧げんとするシナ人の志す修養は見事ではないか。思想の是非を超越した次元でこの詩文を味わいたい。 陸游(りくゆう)が梅を詠ぜし詞を読み、その意(こころ)を反(さかし)まにしてこれを用(もち)う  風雨 春の帰るを送りきて  飛雪 春の到るを迎う  巳(すで)に是れ 懸崖の百丈の冰(つらら)なるに  猶 花の枝のあやに美しきが有り  あやに美しきけれど 春を争(わがもと)とせず  只 春の来たるを報ずるのみ  山花(やまじゅうのはな)爛漫たる時待(やがて)到らば  かの花(かのじょ) 叢(はなむら)にありて笑(ほほえ)まん <注釈> 春は風雨に見送られてかえって来、さらに、吹雪に迎えられてやって来た。 高い崖に百丈ものつららが下がっているが、そこには美しい花の枝がある。早春の試練に耐えて咲く梅の花だ 。 美しいけれども、それによって、春の美しさを独占し世にときめこうというのではない。 ただ、来るべき春のさかりを予告しているだけなのである。 やがて、爛漫と山に花が咲き満ちたとき、先駆者の役目を終えた彼女・梅の花は、実を結び、ほかの花にかこまれながら満足の笑みをうかべているのだろう。 ←絶滅を免れた日本人を一人でも増やす為にクリックを!

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池田大作名誉会長の「脱原発」と思想の軸

白猫でも黒猫でもネズミを捕るのが良い猫だ なぜ“反自民”なのか? 主権回復を目指す会は22日、自民党大会に出席する議員並びに党員へ、会場前でかなり激しい叱責の街宣を行ったが、当日のその場でも今においても全く反応がない。普通であればネット保守、反民主の間からは相当な反応があるべき筈だが、知っていながらウンともスンとも反応がない。無視されているとも言えるが、無視とは意識の裏返し。手の表と裏の関係、強烈な意識の行き着くところが「無視」であり、これは矛盾論で説明出来る。 公明党の山口那津男代表は自民党大会に来賓として出席、「難局を乗り切ることに全力で頑張ることを誓う」と挨拶したが、ここで言う難局とは「衆院総選挙」であり、頑張るとは「自・公連立」にほかならない。谷垣禎一自民党総裁は、「民主との全面対決」を大会で訴えたが、公明抜きでの対決など有り得ない。自・公復活こそ最悪のシナリオであり、これに対する批判の声は、とりわけ愛国保守陣営からはトンと聞こえない。 そうしたなか、創価学会は26日、池田大作名誉会長が「原子力発電に依存しないエネルギー政策への転換を早急に検討していくべき」だとした「平和提言」を発表すると明らかにした。 原発推進の自民党からすれば逆玉を投げられた。捕手(保守)にとっては予期しない“暴投”であり、飛び上がって捕球するのか黙って見過ごすのか興味が尽きない。 それはさておき、これに対してネット保守や「行動する保守」を標榜する側から、「池田大作が『脱原発』なら、こっちは『原発推進』だ」との話を耳にして驚いた。 こうした方々に伺う。仮に池田先生が、「竹島は日本領土だ。シナは尖閣諸島を侵略するな」と言ったら、「竹島は韓国領土だ。尖閣諸島に日本は口出しするな」との見解を出すのか。 池田先生が、「慰安婦強制連行は歴史捏造だ。南京大虐殺を教科書から削除せよ」と言ったら、「慰安婦強制連行は歴史の真実だ。南京大虐殺を教科書に記述せよ」との見解を出すのか。 あの人がああ言ったから、この人がこう言ったからで、その度ごとに己の見解を迷走させては思想運動にならない。思想の軸がぶれては大衆を結集する社会運動と評価されないのではないか。社会運動を支える己の思想を、他人の思惑に委ねて主体性を語ることなど出来ない。 反創価であろうが、アンチ池田大作であろうが1+1=2であり、それ以上でもそれ以下でもない。白は白、黒は黒、白猫でも黒猫でもネズミを捕るのが良い猫である。そこには思想とか宗教の是非など関係ないだろう。 投稿 なぜ『反自民』なのか? 平成24年1月17日    主権回復を目指す会 児島謙剛   【自民こそ政治腐敗の元凶】 我々の活動を特徴づける要素の一つとして、自民党に対する厳しい糾弾が挙げられる。いわゆる愛国運動の中では異色の姿勢であり、とりわけ保守派の人たちにはウケが悪いようだ。彼らにとっては、日章旗を掲げて愛国を訴える団体が、民主党ではなく自民党に向かって批判の声を上げると、どうも腑に落ちないらしい。 かねてから、我々は自身の名が『行動する運動』であり、決して「行動する保守運動」ではない点を強調している。従って、保守政党(自称)である自民党を糾弾するのは、ごく当たり前のことなのであるが、どうしてもその現実を受け入れたくないのであろうか。 「民主党を責めるべきであって、自民党批判は矛先が違う」「今は自民党を責める時ではない」等々、真顔で言ってくる人たちにはただただ唖然とさせられるが、これらはもはや我々に対する常套句と化した感がある。 実際、自民党絡みの活動では人の集まりが芳しくない。「河野談話」の白紙撤回という最も切実なテーマを掲げている時でさえ、お世辞にも参加者が多いとは言い難い状況だ。要因はいろいろと考えられるが、自民党批判=民主党支持=“民主党応援団”のレッテルを貼られてしまうことを懸念または敬遠する人が少なくないのではないかと思われる。 【腐敗・堕落の象徴が「河野談話」】 だが、冷静になって考えて頂きたい。我が国・日本は、平成21年(2009年)9月の政権交代以後、わずか3年足らずの間に突然おかしくなったのか? シナの尖閣に対する侵犯行為や南朝鮮の竹島実効支配強化は、民主党政権発足後に突如開始されたのか? そうではあるまい。 『55年体制』の成立以降、50年以上も政権与党の座に居座っていたのは自民党である。経済最優先、外交・軍事はアメリカ任せの『吉田ドクトリン』を「党是」として、経済に名を借りた利権分配に明け暮れ、公然と国家主権を放棄してきた張本人が自民党だ。 今日(こんにち)の我が国の内政・外交両面における体たらくは、とことんまで腐敗・堕落しきった自民党による失政が積もり積もった産物に他ならない。現在の民主党政権など、悪政の権化である自民党政権の延長線に過ぎないのである。 その自民党政権が犯した悪政・失政の最たるものが「河野談話」であり、日本国民の精神を呪縛し続けている。これを今なお継承し続け、撤回の素振りすら見せない自民党を糾弾することは、愛国を標榜する者として果たすべき当然の責務であり、その意味で、我々が推し進める『反自民』には道理が存在している。我々は、たとえ後ろ指を指されようとも、ブレることなく己の思想に基づく信念を貫くまでのことであり、その心中には一点の曇りも無い。 【腐敗の温床は二大政党に有り】 「自民もダメ、民主もダメ、では誰が政治をすれば良いのか?」「どんなにダメでも、誰かが政治をしなければならないではないか?」等々、これらもよく寄せられる声だ。それはそれで一理ある問いかけだが、既成政党が総じて機能不全に陥り、議会制民主主義そのものが制度疲労を起こしている我が国の現状を目の当たりにした時、それほど簡単に特効薬が見つかるようなら誰も苦労はしない。 その中で我々は具体的に、二大政党制という名の“独裁政治”の元凶=小選挙区制の廃止、利権分配政治の温床=政党交付金(政党助成金)の廃止を提言している。それによって、民主党、自民党といった従来の枠組みを一度すべて取り壊し、人物本位での政界再編を実行すべきと考えている。もちろん、いかなる場合でも公明党の徹底排除が必要不可欠であることについては改めて述べるまでもない。 いずれにしても、我々が「自民党の方がまだマシだから」「消極的な消去法で自民党」という考え方に至ることは断じて有り得ない。自民党の政権復帰とは、すなわち一蓮托生の公明党が必ずセットになった自公連立政権の復活を意味する。なぜ、今さら自公なのか? なぜ公明党なのか? 時計の針を逆戻りさせるだけではないのか? 日頃、愛国を声高に語る人たちは本当にそれで良いのか? 【自・公復活こそ最悪のシナリオ】 自民党は今や公明党(創価学会)の選挙協力無しには選挙を戦うことすらできない有様である。創価学会の組織票とは、まさに“麻薬”であり、ほとんどの自民党候補者が薬(ヤク)に手を染め、染まりきった中毒患者に成り果てていると形容しても何ら過言ではない。私自身は、そのような中毒患者だらけの自民党など一刻も早く解党して消えて無くなってしまえば良いと考えている。 ただし、その前に、自民党には自らが犯した最大・最悪の“犯罪”である「河野談話」の完全白紙撤回という落とし前をつけさせなければならない。それが目下、我々『行動する運動』に課せられた使命であると言えよう。 私がこの原稿を書いている本日1月17日は、阪神・淡路大震災から17年を迎える節目の日である。昨年3月11日の東日本大震災を間に挟み、隔世の感すら禁じ得ないが、日本国民は、当時の政権与党の一員であった自民党が我が同胞を「見殺し」同然にした犯罪的不作為の数々を決して忘却の彼方に押しやってしまってはならないのである。 ←絶滅を免れた日本人を一人でも増やす為にクリックを!

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