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TPP、国益は戦って死守せよ

国家滅亡をTPP「参加」に求めるのは敗北主義だ 国益はTPP「不参加」ではなく戦って死守せよ TPPの参加、不参加を論ずるに当たって、二者択一方式で選択するとすれば不参加でいい。参加でも不参加でも、今現在の日本人の意識状態では国家の先行きなど、行くも地獄、去るも地獄だろう。 こうした状況の中で野田総理は参加の方向を示したが、日本は議会制民主主義国家であり、与党の党首がTPPの参加を決断すれば、それは国家意志となる。我々はこうした政治制度の中で生まれ生きている。 TPPは参加又は参加予定の国が日本を含めて12カ国に上る。12カ国合わせての国民総生産の内、日米の占める割合は二カ国で約8割にもなる。と言うことは数値上で見れば、TPPが日本と米国の二国間協定と言ってもいい。しかしながら、TPPは多国間協定であり、単純に米国の主張ばかりが我がもの顔で通るわけではない。通るとすれば、戦わないで通させてしまう側にこそ問題がある。国民が野田総理に望むことは、戦って国益を死守することにある。 プラザ合意(1985年)に始まってこの方、日本は日米安保同様、米国の要求に屈し続けて経済的権益を米国に売り渡してきている。 現在の日本の対米関係からいえば、TPPとは日米安保の経済体制・強化延長であるといってもいい。言うまでもないが、日米安保体制は軍事における米国への従属体制として、我が国は国家主権を喪失したまま今日を迎えている。 しかしながら、日本の国家主権の喪失は日米安保体制そのものにあるのではない。米国への軍事的従属を受け入れる民族意識の喪失にこそある。TPPで日本の国家主権が喪失、国益を損失するなど明後日も甚だしい。もうとっくに”終了”している。 国家主権、国益喪失云々はTPPではなく、日米安保条約によって既成事実化している。問題なのはTPP参加、不参加ではなく、日本人としての覚悟と民族意識の自覚が取り沙汰されないことにある。 TPPをあたかも黒船襲来のごとく恐れる論調を見受けるが、戦いもせずして相手をことさら「強大化」するのは端から敗戦を受け入れる敗北主義又は逃走主義ではないか。特に「保守派」陣営に垣間見る論調だが大和魂が泣くというものでる。ポーツマス条約を交渉した小村寿太郎など、先人の粘り強い偉業を忘れてはならない。 ↓ 【参考】日米安保の見直し・破棄なくして主権回復はあり得ない  http://www.shukenkaifuku.com/past/shuchou/110428.html TPPで農業が壊滅するなどというが、なぜ「壊滅」を免れているのか。それは農家に対する各種補助金であり、この補助金は米国ではなく、我々国民が負担している。 国民の税負担という「保護」で成り立つ農業は、貿易立国の日本に相応しくなく歪(いびつ)である。また水田は自然のダムであり、無くなれば洪水が頻発するなどの論もあるが、洪水は水田の有無にかかわらず昔から毎年発生している。 さらに農業、特に米作などでいえばTPP云々を論ずる前に、減反を進めながら且つ後継者が育たない現実であり、この最大の問題を抜きにして農業をいくら論じても不毛である。 トップブランドの米作または果物、野菜を生産する農家で「TPP」参加を結構とする農家が多い。そして、彼らはしっかりとした経営体制で後継者を育てている。国家の「補助」なくして高品質の作物を消費者に届けている現実を無視してはならない。自助努力をする農家と怠る農家を同列に扱ってはならない。無節操な条件抜きの「保護」はシャブ浸けと同じになってしまう。 物事はある一定の条件で対立面に転化(統一)する。自国の農業を保護する「補助金」制度は弱い農家を守る側面であるが、一方において自立を妨げる阻害の要因ともなる。制限のない「補助金」制度は自立を妨げ、ある一定の条件で「シャブ浸け」に転化する。自立が「シャブ浸け」では元も子もない。 【参考資料】攻防TPP賛否を問う(朝日新聞11月4日) (↓ 画像クリック拡大) 医療に関しても同じである。 TPP参加と国民皆保険制度は全く関係ない。国民皆保険制度においてもっとも危惧されるのは、人口減少・少子化による加入者の先細りにこそある。交渉で米国が制度をいじくる理不尽な要求を突きつけたとしても、我が国はこれを毅然とはね除け、国民生活を死守すればいいだけだ。席を蹴ってしまえばいい。席を蹴る前から「負ける」など聞き苦しい限りである。 安い医療費で高品質の医療サービスを提供するのであれば、日本だろうが米国だろうがその病院は国民生活に寄与し、結果、国益に適うというものである。その反対であれば、選択するのは日本国民であって、低品質の医療サービスが市場から淘汰されるのは必然だろう。 TPPに参加、不参加で国家は滅亡しない。国家の滅亡は民族意識の喪失に根本原因があり、戦いを放棄した精神の弱体化にある。TPPに国家滅亡の原因を転嫁するな。TPPを国家再生の転機にする逞しい気概を持とうではないか。大和魂とは、国難を前に燃焼・爆発する民族精神である。 ←絶滅を免れた日本人を一人でも増やす為にクリックを!

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生に執着する日本人

日本を滅ぼす長寿信仰 人間、命長ければ辱(はじ)多し お盆の帰省は高速の無料化などと相俟って例年以上の渋滞が各地で起きていた。 特にUターンラッシュはとりわけ激しい様相を呈していたが、それぞれが田舎で祖先の御霊をお迎えし、送り火でお見送りした充足感は得難いものであったに違いない。 物事はある一定の条件で対立面に転化、また対立面が統一する。八月お盆ということもあり、この観点から死生観を考えてみたい。 我々は何を前提にして生きているかといえば、来るべき死を前提にして生きている。来たるべきとは、逃れられないと言うことである。万人に等しく与えられた必然である。 生と死は手でいえば表と裏、生と死は文字通り表裏一体である。我々の存在は生と死で構成されており、死ぬために生きているともいえる。 と言うことは、生と死は異なる概念ではなく、一体として捉えることが出来る。 事実、死ほど我々の日常に密着している必然はない。しかしながら、一方では死ほど人間一般にとって受け入れがたく且つ関わりが忌避されるものはない。 「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅っせぬもののあるべきか」 『敦盛』(幸若舞)  「命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ」 『徒然草』第七段 (吉田兼好 1283年 -1352年) 『敦盛』(源平合戦)の時代が平安時代、吉田兼好が鎌倉末期だから、それぞれ800年から600年前の日本人の死生観が述べられている。 下記は シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』からの一節、暗殺の情報を入手した側近らが、シーザーに元老院への登院を諫(いさ)めるシーン。 諫める側近へシーザーは 臆病者は現実の死を迎えるまでに何度でも死ぬものだ。勇者にとって、死の経験は一度しかない。世の不思議はいろいろ聞いてきたおれだが、何が解らぬといって、人が死を恐れる気もちくらい解らぬものはない。死は、いわば必然の終結、来るときにはかならず来る。それを知らぬわけででもあるまいに <『ジュリアス・シーザー』(シェイクスピア・福田恆存 訳)> シェイクスピアが『ジュリアス・シーザー』を上演したのが約400年前(1600年)だが、『敦盛』や吉田兼好らの死生観と見事に重なっている。 この夏は節電キャンペーかどうか知らないが、やたら熱中症による死者、それも高齢者の死亡報道が目に付いた。特に65歳以上の高齢者が死亡する割合は季節の変わり目、特に2月と8月に高く集中することは知られている。80,90才が熱中症で死を迎えるのは悲嘆する悲劇ではないはず、ましてやニュースなどには。 最新の統計でも、日本人の平均寿命は男性が79.59歳 、女性が86.44歳と、世界でも抜きん出ている。自然の摂理として、高齢者の宿命としてその死は誰しもが受け入れなければならないところだが、生に執着する風潮は過剰且つ浅ましくも見苦しい。 国連が、「世界人口推計2010年改定版」を発表した。世界人口は今年10月末に70億人に達し、90年後の2100年までには101億人になるという。地球上の適切な人口は約30億人と言われているので、2050年には百億人近い人間が余剰人口となる。地球がもはや悲鳴を上げているのではないか。 「命長ければ辱(はじ)多し」と記した先人の言葉をよく思い返したい昨今である。 『送り火二題』      新盆の送り火消へてしんしんと母亡き家の寂寥(せきりょう)深し      家々の送り火消へてふる里を包む暗やみ昔も今も 下記はシナとの比較文化の視点から「長寿」を考察した投稿、日本人の死生観を今一度考えてみたい。 投稿      日本を滅ぼす「長寿信仰」 「長寿」という支那思想から脱却せよ 平成23年8月20日   こだまともはる     周知のとおり日本は長寿大国である。長くこの世にいることを「長寿」というらしい。なんだかバカみたいな話だ。人よりも、一年でも長く生きることが、いつしか生の目的とされたのである。いうまでもなく、地球という生命体にとって、人類が呼吸しはじめたのはごくわずかな時間に過ぎない。四六億歳である地球の一生からすると、人類は塵芥のようなものだ。一〇〇歳まで生きようが、二〇歳で死のうが、地球や宇宙の摂理でとらえたら微々たる問題である。問題は量より質だろうに。 筆者は、長生きをしたいという願望は支那人に由来するものと考えている。例えば秦の始皇帝。彼は不老不死を目指して、徐福に蓬莱(ホウライ:日本とされる)へいって仙人を連れてこいと命じた。結局皇帝は死ぬが、このとき以前から支那人にはこうした願望があったのだろう。  ← 秦の始皇帝:シナ統一後、不老不死の霊薬を求め方士を重用した。特に、徐福に命じて蓬莱国(日本)へ霊薬採取の船団まで派遣した徐福伝説は有名である。 … 続きを読む

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手放しで喜んでいいのか日本

※主権掲示板/主張欄<手放しで喜んでいいのか>なぜ暴動、略奪が起きない日本・オリジナル原稿   突然の海もりあがる夢うつつ瓦礫と化したる真昼の暗黒      震災犠牲者に黙祷     自然科学、また社会科学においてもそうだが、事物とか物事の概念はある一定の条件で反対の側へ転化する。哲学用語ではこれを対立面の統一ともいう。  この観点から、今回の震災に遭遇した日本人のメンタリティーを考えてみたい。 
 海外メディアは震災時における日本人の規律正しさ、整然とした行動、暴動、略奪に走らない民度の高さを「驚き」をもって報道した。それを受けて多くの日本人、特に「保守」派がこれをしきりに自画自賛しているが、手放しで悦に入っていいものだろうか。これを民度の高さなどで説明できるだろうか。  暴動、略奪が起きない、又は起こせないのには理由がある。起こす理由、必要、さらには起こす気力がないということでもあり、道徳律が他国に比べて特段高いからで説明できるだろうか。 
 ありとあらゆるインフラが破壊される未曾有の災害にも関わらず、被災者はそれぞれの避難施設に落ち着きさえすれば、基本的な衣食住は国家が保証してくれ、テレビや入浴などを除けば、生命を維持する最低限は整っている。少なくとも、この点において暴動、略奪を起こす理由、必要がない。危険を冒して、他人を押しのけてまで命の糧を争う必要がないのである。 
 こうした救済の形は奈良時代の光明皇后までさかのぼれる。夫である聖武天皇に強く進言して東大寺、国分寺の建立に大きな存在を示された方で、各所に救護施設にあたる「悲田院」、医療介護施設に該当する「施薬院」を設けて慈善活動を積極的に行った。  この時代は、主権回復を目指す会が推薦する図書の『穢土荘厳』(杉本苑子・文春文庫) に詳しいので是非読んで頂きたい。  古来、救護施設に収容して貰えさえすれば、当分の生命の維持は保証されるのである。これらは江戸時代まで、地震などの災害に幕府は「罹災者救恤」の特例でもって庶民の救援に関わってきた歴史がある。  集団飼育される家畜小屋の草食動物が先のことさえ考えなければ、生命を維持するエサに困ることはないように、特段の不平、不満を生じない。 
 早い話が、従順に躾られて来た日本人は特別なにも倫理観が高いとか、民度が高いのではなく、災害時に暴動を起こす必要がないからとも言える。生活、生きることに躾られた日本人は他民族に比べて、危機の際に極端に生命力が貧弱ともいえる。  被災地で頻発するこそ泥の類の窃盗事件・・・、災害のどさくさに紛れた窃盗事件の多発は現地の警察が報告するように明らかである。  ◆宮城、震災後の窃盗被害1億円 被災地で多発290件 ガソリン盗増加  http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110330/crm11033011510003-n1.htm  上記の報道のように、ここの何処に我が国が他国に自慢する民度の、倫理観の高さがあるのか、人の不幸につけ込んだ火事場ドロボー、最も卑怯な行いではないか。これを演じている卑劣漢が他でもない日本人なのである。この類いの日本人、恥を知れ!と言いたい。  なぜ、こそ泥か。集団で白昼堂々と暴動、略奪できない精神の弱さにある。だから、ただのこそ泥しかできない。暴動、略奪は善悪の是非如何を抜きにすれば、とてつもない膨大なエネルギーの発散であり、情念の爆発である。日本人には、危険を冒してまでの気力、エネルギー、情念がないといえる。他民族と比較して生命力を支える力が極端に弱いのであるが、特に「保守」を自称する側がこの点を全く自覚できていない。  民度の高さ、道徳律なる概念は民族、社会のおかれている環境(一定の条件)で対立面へ転化するものであり、右か左を選択するような単純なものではない。   定まらぬ軌跡のままに落下舞ふ わが皇国の行く末なぞらひ 国のため 生命(いのち)捧げし ひとのあり まことのこころ 映す春の灯 さくら満開の千鳥ヶ淵にて        (平成23年4月8日)     参考文献: 毛沢東『実践論・矛盾論』 杉本苑子『穢土荘厳』   … 続きを読む

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