「政経通信15号」支那人留学生の横暴に屈服した麗澤大学
http://www.shukenkaifuku.com/past/teigenshutyou/12_9_1makiyasutomo.htm
政府の決定に反する言論は禁止/話し合いによる解決は拒否
<藤井厳喜非常勤講師が解任されたことの真相とは>
平成12年9月1日
「政経通信15号」
政経調査会代表 槇 泰智
【会談で明らかになった大学側の事勿れ主義】
私が中国の名称を用いず支那と呼称するのは主に以下の理由からである。
①支那の呼称は古代シルクロードの要衝、雲南省に栄えた商業都市「支那城」に起源を発し、更には「秦」に由来するものであり、何ら差別的表現ではない。
②我が国において中国と言えば山陽・山陰道に位置する五県を指す地方名以外には存在しない。
③中国という表現こそ「我こそは世界の中心」とした中華思想によるものであり、日本人を東夷(東の野蛮人)と見下した逆差別語である。
④英語でCHINA(チャイナ)と呼んでもよいが、シナはだめと言うならば我々は千葉(CHIBA)をチャイバと発音しなければならなくなる。
因に仏語はシーム、西語はチナ、独語はヒナ、伊語はシーナである。
千葉県柏市の麗澤大学(廣池幹堂学長)国際経済学部において非常勤講師の藤井厳喜氏が講義の中で支那という呼称を使用したため、一部支那人留学生が騒ぎ大学はその圧力に屈して、藤井氏の講義を打ち切り事実上解雇するという事件が勃発した。
6月14日付けで同大学「中国人留学生会」の張麗燕(女子)が丸山康則同学部長に対して同会名で「政治学の授業に関するお願い」なる文書を提出し藤井氏の発言・態度を改善するよう要望すると同時に、「中国人留学生へ」と題する呼びかけ文を配り「藤井先生が中国人を侮辱した」と訴えたのである。
6月26日、藤井氏は張麗燕を含む支那人留学生5人と丸山学部長、それに藤井氏を非常勤講師として大学に紹介した鈴木幸夫前同学部長と対談の機会を持った。
藤井氏が支那は差別語ではない旨論理的に説明しても、彼らは「侮辱と感じる」「いやだからやめろ」と感情論を繰り返すだけで話し合いは平行線を辿った。
藤井氏が授業の中で時間を設けるので「諸君の意見を皆の前で堂々と展開してくれ」と提案したが、「議論する事自体がけしからん」、と拒否、最後は「私たちが納める学費から先生たちは給料を貰っているのだから私たちの言うことを聞きなさい」、と絶叫する有り様。
同席した2教授は彼らを諌めるでもなく沈黙を押し通した。
小紙、前号で報じた校長に土下座を迫った東京・国立市立第2小学校の児童同様、「教えを乞う」という教育の基本理念が崩壊している。
この麗澤大学が「道徳教育の徹底」を建学以来の基本理念、と豪語しているとは正に笑止千万。
最も支那人留学生としては本国に還ればこのような暴言が吐けようはずもなく、我が国を属国と見なす中華思想による発言に他ならない。
ましてや国費留学生として我々が納めた税金で来日した学生の言うべき事ではない。
その後7月に入り大学側から「講義内容についてのお願い」、という文書で支那使用の禁止が通達されたが、藤井氏がこれを拒絶する旨回答したことで17日に講義打ち切り、事実上の解雇となったのである。
この間、支那が差別語であるか否かという事は一切議論されていない。
この異常事態を受けて幣会では維新政党・新風千葉県本部(現在、主権回復を目指す会代表)の西村修平代表と千葉県立小金高校(現在、県立柏北高校)の先田賢紀智教論、そして同大学同学部の4年生で藤井氏の講義を受講しているS女史の4人で7月24日、同大学に抗議に向かった。
先方は丸山学部長・永井四郎同学部教務主任・松井副学生部長・今村稔庶務課長が出席したが、主に丸山学部長が受け答えた。
紙面の都合上、応答の主要部分を以下の通り抜粋する。
【支那のどこが差別語ですか?】
丸山 歴史の専門家の意見では支那という言葉は秦をインド側から呼んだ言葉とか、シルクロードの絹を表す言葉とか諸説があるようだ。
日本で支那という言葉が使われたのは江戸中期である。これは尊敬を込めた言葉であった。
明治中期までそうであったが、日清戦争以来日本が大陸進出を謀ってから太平洋戦争まで支那は侮蔑語として使われた。中国の留学生は支那を侮蔑語として学んだ。
1946年日本の外務省に向かって中国から「支那という名称を使ってほしくない。中華民国を使うように」と、要請が来たので外務省次官名で全てのマスコミに「今後中国という名称を使うように」通達が出された。同時に文部省も学校では「中国」を用いるようにとしている。中国からの留学生が「支那」に差別感を持つのは当然だろう。
西村 藤井先生に出した「講義内容についてのお願い」の中で「国際関係にも十分配慮してほしい」とあるがどういう事か。
丸山 先生が外部で活動されるのは全く自由であるが、麗澤大学には学生3000人の中に留学生が400人いる。その中の158人は中国人であるということに配慮してほしいということだ。
西村 英語では「中華人民共和国」はどう言うのですか。
丸山 The People,s Republic of Chinaです。
西村 人民共和国はPeople,s Republicでしょうが中華はどう言うのですか。
丸山 ………
槇 The brilliant Central of The World(華やかなる世界の中心)とでもなるのでしょうね。
丸山 Chinaでしょうね。
西村 そうすると支那人留学生はChinaとよばれても怒らないわけですね。
丸山 国際的にはChinaで通っていますからね。
西村 そうすると欧米人がChinaと言うのは問題にせず、日本人が支那と言うのに怒るのはどうしてでしょうか。どうして侮蔑を感じるのでしょうか。
丸山 その国の文化の中でそれを侮蔑と感じることがある場合、それは仕方のない事でしょう。差別というのは相手がどう受け止めるかが問題です。セクハラと同じです。
槇 言葉はそれを使う人の内面的なものではないでしょうか。「この中国人野郎」と罵倒する人と、「支那人の方大丈夫ですか」といたわりの言葉をかけるのではどちらが問題でしょうか。
西村 欧米人がChinaというのに侮蔑を感じないのは何故か問い質したのですか。
丸山 それは中国人の問題です。
西村 だから、それを支那人に説得しなきゃならないのじゃないですか。日本人にだけ「支那を使うな」と言うのは、日本人だけを差別していることだと、分からせなきゃいけない。
槇 支那が差別語でないという事を教えないからですよ。逆に中華と言うほうが他国を見下した差別語である、と教えるべきですよ。
丸山 藤井先生の講義を受けている学生でさえ「あれほど立派な講義をなさっているのに、何で差別と誤解を受ける支那という言葉を使うのか、勿体ない」という声さえあります。
槇 その通り、誤解である。支那は差別語であるという誤解を解く努力をするのも大学の使命ではないですか。
丸山 大学の外でそういう運動を願いたい。大学の中では差別と感じる学生が1人でもいる限りできません。
西村 158人も支那人留学生がいれば、その中には共産党のキャップがいるでしょう。彼らは月に1回留学生の動向を中共大使館に報告に行っています。そしたら「支那で結構、問題はない。中共には言論の自由など何もない」などと誰が言えますか。言いたくても言えない人達がいる、だからそれを学問の場でやっていただきたい。それが文学博士としての先生のあるべき姿ではないですか。
丸山 私たちは教育環境を和やかなものにするというのが仕事です。
西村 では支那人が騒げば何でも「ハイハイ」と聞くのですか。
丸山 何人が騒ごうが、和やかな教育環境を作るという事を考慮しなければならない。
西村 チベット人で中国のパスポートを持っている人がいますが、この人が「中国は漢民族の言葉である。今に我々は独立するから、中国という言葉は使わないでくれ」と言ったら、あなたはこのチベット人の言う事を聞くのですか。
丸山 仮定の問題には答えられません。現実に学園で預かっている学生達が問題なのです。
西村 ではあなたは学者としての良心を投げ捨てても平穏無事であればいいと言うのですね。仮定の問題に答えられないならば、学問を追究する資格がない。
先田 これは学問ではなく政治問題ですよ。留学生は経済的・政治的なエリートです。もし政府の意向にそぐわない言動をとったら留学できないのではないですか。支那が差別語だとしたら逆はどうですか。卑弥呼は。邪馬台国はどうですか。これらの漢字こそ悪意を込めた差別語ではないですか。それを棚にあげて支那が差別語とするのはジャパンバッシングのための屁理屈ですよ。
丸山 政治問題ではなく文化の問題でしょうね。
槇 物事の真偽を問わず無条件に多数に媚びるというのであれば、何も考えず仲間外れを恐れて皆と同様にルーズソックスを履いている女子高生と同じではないですか。
S女史 私は政治学を専攻して藤井先生を尊敬する1人ですが支那と言ってもいいと思います。松本健一先生(同大学教授)の授業の中で、中国の華夷秩序を、中華人民共和国の中華というのは東夷・西戒・南蛮・北荻に対する世界の中心という意味であると習って、先生に「それは昔の話でよすね」と質問したら、「今もそうですよ」と答えられました。それでもし私が「中国ということはそれを認めることで差別を感じるので、支那と言いたい」と言ったら丸山先生はどうおっしゃられますか。先生は「差別と感じる学生が1人でもいる限り」と表現されましたが、どうですか。それは日本人の学生に対しても同じ事だと思いますが。
丸山 中国の文化の中で育った留学生が支那という言葉に対するイメージも問題です。
S女史 何人かの先生に伺ったのですが、支那という言葉自体は差別語ではないし問題ではない、どういう文脈で使ったかは問題になるかもしれないが、ということでしたが。
丸山 それは中国人の留学生にとっての問題ですよ。
S女史 私たち日本人にとってはどうなんですか。
丸山 あなたはどう呼びたいわけ。
S女史 私を含め殆どの学生は中華という意味を知らなかったわけです。知ったからといって支那と呼びたいとか中国と呼びたくない、とは思わないです。だからといって藤井先生に「支那といってはいけない」というのは違うと思うんです。
槇 1人でも差別と感じる人がいたらやめさせると言うのだから中国を差別と感じる人がいたら中国という語を使用禁止にするのか、と聞いているのです。
丸山 逆の例でいけば、日本で育って外国へ行って、ジャップのような日本に対する差別語を言われたらどうですか。
S女史 でも支那は差別語ではないですよね。それを中国の留学生に教えてあげたらいいのではないですか。それをしないということは差別語であると認めた事になるのではないですか。
【最後まで逃げに徹した大学側】
槇 今あなたは支那が差別語であるかどうかという事については争わないのですか。
丸山 私自身は差別語であると思います。
槇 あなたが思うのは自由だが差別語であるかどうか議論する機会を設けていただけませんか。
丸山 いや、もうこの問題については、和やかな教育環境を作るというのが私共の使命ですし。
西村 支那人のための和やかな教育環境ではないか。日本人学生の教育環境はどうするのか。
槇 最後に確認したいのですが、中国という言葉を使え、という根拠は世間一般の常識だからですか、それとも昭和21年の外務次官通達があるからですか。
丸山 国が決めた事ですね。外務省と文部省も学校関係者に対しては次官通達で。
槇 だがその通達は我が国が米軍の占領下にあり主権を剥奪された状態で、所謂戦勝国からの要求により出されたものであり、本来なら昭和27年に講和条約が成立し、独立を果たした段階でそれが妥当なものか否か検討すべきではなかったか。
まして、当時の国民党政府と現在の中共政府とは別物である。
にも拘わらず50年以上前の次官通達があるから麗澤大学では学生は支那という言葉を使ってはいけない、という事ですね。
丸山 授業の中で使うのはよくない。授業以外でも中国という言葉を使う事を望みます。
槇 先生の場合は学外ではよくて、学内ではいけないと。学生はどうですか。授業中に使ったら処分するのですか。
丸山 それはないですね。処分する、しないという次元の話ではないでしょう。中国という言葉を使うように指導します。例えば中国人がいるパーティーでは彼らが望まない言葉はさけるよう。当然のマナーですよ。
槇 それは支那が差別語であるという立場に立っており、それ以外の考えは一切認めないという事ですね。
丸山 いろいろ考え方があるでしょうが我々はそういう考え方です。
西村 麗澤大学の学生がインターネットで支那という語を使っているのですがどう思われますか。彼の処分に関わることなのでお聞かせください。
丸山 もう時間ですから。私共の申し上げる事はこれ以上ありません。終わることにします。どうも。
(大学側一同席を立とうとする)
槇 昭和21年の外務省次官通達が根拠ということですね。それなら村山内閣がやった戦争謝罪決議にも、河野洋平がやった従軍慰安婦強制連行説も政府が認めたことですが、これにも異を唱えては行けないわけですね。それなら支那共産党政府と同じではないですか。
政府の決定に異論を持ってはいけないというのでは。
丸山 憲法論と同じではないでしょうか。現憲法がある限り生きているわけですから。変えれば別ですよ。私共の用意している検討事項はこれまでです。
西村 こんなことをしていたら次から次へと支那人はトラブルの種を持って来ますよ。こんなの手初めですよ。
槇 政府見解に反することを議論することはいけないということですね、この大学では。
丸山 国民的常識だと思います。
槇 従軍慰安婦の強制連行はあったと言わねばならないし、日本は侵略戦争をした国なのだと言わなければならないのですね、この大学では。
S女史 すみません、私も学生として藤井先生の講義の再会を望んでいます。
丸山 もう終わりにしましょう。
以上の内容からも分かる通り大学側は最後まで逃げた。
結局、私としては支那が差別語ではない、という持論を開陳する機会も与えられぬまま、話し合いは一方的に打ち切られた。
大学側は民主主義のルールに沿って話し合いで解決することを拒絶したのである。ならば、解決したければ話し合い以外の手段、つまり「暴力で来い」と、いう事と理解すればよいのだろうか。
最高学府としての見識が疑われる。文部省ではこの支那共産党の手先に対し年間5億円の血税を私学助成金の名で投入しているのである。
最近の少子化現象の中、学生が集まらず、定員割れで助成金がカットされるのを危惧して必死に支那からの留学生を誘致している地方の短大があると聞くが麗澤大学もその一つなのだろうか。ならば冒頭の支那人留学生の言うように黙ってお客様に従うべきと覚悟を決めているのか。
因に、本件について藤井氏が「諸君」(文芸春秋社刊)9月号において執筆したところ、翌10月号において鈴木幸夫教授(前出)が大学側を擁護して反論を書いているがその内容たるや誠にお粗末。
「藤井氏がどうしても納得できないなら、外務省なり文部省、あるいは新聞、通信、雑誌、放送の主要各社に、なぜシナまたは支那を使わないのかと談じ込んだらいい。各社がどう答えるか、大いに見ものである。」、と多数を見方につけた如く嘲笑している。
大学教授という肩書きを付けて70数年生きて、よくこのような血迷った事を一般誌に書けるものである。今回の1件はあくまでも自らの受け持つ講義の中で支那の呼称を使用することを妨げるな、と言うことであり、無知なる世間一般に対し使用を強制するといったことではないことが理解できていないのである。
これは大学側そのものも同様であろう。故に彼らとの議論が噛み合わなかったのも今となっては頷ける。
これら無知蒙昧な教授陣の下で学園生活を送らねばならないとは、向学心に燃えて入学して来た優秀な学生等があまりにも哀れではないか。
◆参考資料(東京新聞 平成12年9月22日)
「シナは蔑称でない」(北京21日清水美和)
<中国 最大級ネットが改名拒否>
中国で最大規模のポータルサイト「シナ(sina)・ネット」を経営する新浪網公司は21日、本紙の取材に対し「シナ(支那)は中国への蔑称」と一部の学者などから出ていた改名要求を拒否する方針を表明した。「シナは英語のチャイナを語源としており、それ自体に侮辱の意味は込められていない」というのが理由だ。
最近、「中国青年報」など一部新聞が、中国最大のネットが「シナ」を名乗るのは国辱的だと、日本から帰国した学者などの意見を紹介する形で批判。北京大学の劉金才教授は「日本が中国への侵略を開始するにつれ中国への蔑称として使われるようになった。シナは支那と発音が全く同じであり、もし日本で中国のことをシナと呼べば中国人とけんかになる」と名称の再考を促した。
これに対し新浪網広報部は「シナは英語のチャイナの過去の発音。中国の英語名を変える必要がありますか。シナに侮辱の意味が込められているというなら、自身の国家を強大にすればいいだけの話。新浪網は将来、シナを世界のブランドにし、中国人が誇れる呼び名にする」と批判を一蹴(いっしゅう)。シナ・ネットにも「欧米人にチャイナと呼ぶのを許しながら日本人にだけシナと呼ぶのを許さないのは不公平」など同社を支持する意見が寄せられている。
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