生に執着する日本人

日本を滅ぼす長寿信仰

人間、命長ければ辱(はじ)多し

お盆の帰省は高速の無料化などと相俟って例年以上の渋滞が各地で起きていた。

特にUターンラッシュはとりわけ激しい様相を呈していたが、それぞれが田舎で祖先の御霊をお迎えし、送り火でお見送りした充足感は得難いものであったに違いない。

物事はある一定の条件で対立面に転化、また対立面が統一する。八月お盆ということもあり、この観点から死生観を考えてみたい。

我々は何を前提にして生きているかといえば、来るべき死を前提にして生きている。来たるべきとは、逃れられないと言うことである。万人に等しく与えられた必然である。

生と死は手でいえば表と裏、生と死は文字通り表裏一体である。我々の存在は生と死で構成されており、死ぬために生きているともいえる。

と言うことは、生と死は異なる概念ではなく、一体として捉えることが出来る。

事実、死ほど我々の日常に密着している必然はない。しかしながら、一方では死ほど人間一般にとって受け入れがたく且つ関わりが忌避されるものはない。


「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅っせぬもののあるべきか」 『敦盛』(幸若舞) 

「命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ」 『徒然草』第七段 (吉田兼好 1283年 -1352年)

『敦盛』(源平合戦)の時代が平安時代、吉田兼好が鎌倉末期だから、それぞれ800年から600年前の日本人の死生観が述べられている。

下記は シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』からの一節、暗殺の情報を入手した側近らが、シーザーに元老院への登院を諫(いさ)めるシーン。

諫める側近へシーザーは


臆病者は現実の死を迎えるまでに何度でも死ぬものだ。勇者にとって、死の経験は一度しかない。世の不思議はいろいろ聞いてきたおれだが、何が解らぬといって、人が死を恐れる気もちくらい解らぬものはない。死は、いわば必然の終結、来るときにはかならず来る。それを知らぬわけででもあるまいに

<『ジュリアス・シーザー』(シェイクスピア・福田恆存 訳)>

シェイクスピアが『ジュリアス・シーザー』を上演したのが約400年前(1600年)だが、『敦盛』や吉田兼好らの死生観と見事に重なっている。

この夏は節電キャンペーかどうか知らないが、やたら熱中症による死者、それも高齢者の死亡報道が目に付いた。特に65歳以上の高齢者が死亡する割合は季節の変わり目、特に2月と8月に高く集中することは知られている。80,90才が熱中症で死を迎えるのは悲嘆する悲劇ではないはず、ましてやニュースなどには。

最新の統計でも、日本人の平均寿命は男性が79.59歳 、女性が86.44歳と、世界でも抜きん出ている。自然の摂理として、高齢者の宿命としてその死は誰しもが受け入れなければならないところだが、生に執着する風潮は過剰且つ浅ましくも見苦しい。

国連が、「世界人口推計2010年改定版」を発表した。世界人口は今年10月末に70億人に達し、90年後の2100年までには101億人になるという。地球上の適切な人口は約30億人と言われているので、2050年には百億人近い人間が余剰人口となる。地球がもはや悲鳴を上げているのではないか。

「命長ければ辱(はじ)多し」と記した先人の言葉をよく思い返したい昨今である。

『送り火二題』

     新盆の送り火消へてしんしんと母亡き家の寂寥(せきりょう)深し

     家々の送り火消へてふる里を包む暗やみ昔も今も


下記はシナとの比較文化の視点から「長寿」を考察した投稿、日本人の死生観を今一度考えてみたい。

投稿
     日本を滅ぼす「長寿信仰」

「長寿」という支那思想から脱却せよ

平成23年8月20日  
こだまともはる  

 
周知のとおり日本は長寿大国である。長くこの世にいることを「長寿」というらしい。なんだかバカみたいな話だ。人よりも、一年でも長く生きることが、いつしか生の目的とされたのである。いうまでもなく、地球という生命体にとって、人類が呼吸しはじめたのはごくわずかな時間に過ぎない。四六億歳である地球の一生からすると、人類は塵芥のようなものだ。一〇〇歳まで生きようが、二〇歳で死のうが、地球や宇宙の摂理でとらえたら微々たる問題である。問題は量より質だろうに。

筆者は、長生きをしたいという願望は支那人に由来するものと考えている。例えば秦の始皇帝。彼は不老不死を目指して、徐福に蓬莱(ホウライ:日本とされる)へいって仙人を連れてこいと命じた。結局皇帝は死ぬが、このとき以前から支那人にはこうした願望があったのだろう。

 ← 秦の始皇帝:シナ統一後、不老不死の霊薬を求め方士を重用した。特に、徐福に命じて蓬莱国(日本)へ霊薬採取の船団まで派遣した徐福伝説は有名である。

支那由来の宗教である法輪功も、「気の巡りをよくして長生きしよう」というから、似たようなものだ。先日、支那から日本へ帰化した法輪功の人と話しをしていたら、「世界中で法輪功は広まっているのに、日本では法輪功を弾圧している中共を恐れているのか、教えが広まらない」といっていた。筆者は、「なんでも中共のせいにするなよ。日本人は長生きということは口にするけど、支那人ほどに生に執着しない美徳を持っている」と反論した。

東洋思想史、日本思想史の泰斗津田左右吉は、「肉体的生命を無限に延長しようとするような支那人の欲望もまた日本人には顧みられなかった」(『支那思想と日本』)と述べている。支那人は仙人を生んだが、それは日本では広まらなかった。日本人で仙人になろうとする人はいなかったのである。津田は、こうした此岸にしがみつく、即物的な支那人の生き方が、極端な現実主義や自己本位な傾向を生んだと指摘している。あれだけ支那人がカネに執着する背景には、こうした人生観が横たわっていることはよく注意しておくべきだろう。日本人は「武士道といふは死ぬことと見つけたり」(『葉隠』)という伝統を持つのだから、おおよそ支那人の態度とは異なっている。こうした生のあり方は、今の日本人には望むべくもないが。

付言する。福沢諭吉は、『福翁百話』(一八九六~九七)で人を「ウジムシ」と表現した。彼は一方で人は「万物の霊長」ともいうが(この言は『書経』に由来するから支那思想)、福沢の死生観の本命は「ウジムシ」の方だったと思う。福沢が言うには、人の一生は儚い。その儚さを自覚することが、世の中を活発に渡る活力になるという。日本人の多くはこうした死生観を持っていたのである。現代日本の「長生き信仰」は、物質的に豊かになりすぎた時代以降に出てきた観念なのである。

筆者は、「長生きしたい」という人間は好きになれないし(自然な長生きを否定しているのではない)、若いときから安全志向で「上場企業に入社したい」というのも、生の平板化のあらわれだと考えている。彼らの精神は、「保身」しかないから。長生き信仰は支那思想以外の何物でもなく、日本人を根底から腐らせていることにいい加減気づくべきだ。「長生き」一辺倒では、生の質はおろそかにされ、日本社会は活力が失われ、緩やかに滅んでいくしかない。

 

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米倉弘昌宅に抗議

自宅街宣(米倉弘昌・住友化学会長、経団連会長)

経済テロリスト・原発マフィアと化した米倉弘昌の暴走を許すな!


主権回復を目指す会は8月14日、抗議文の受け取りを拒絶している米倉弘昌(住友化学会長・経団連会長)の自宅へ抗議文を届けに伺った。

 ←横浜市南区南太田2丁目の自宅

車の渋滞を避けるため、早朝の7時、抗議文を持参して横浜市南区南太田2丁目の自宅へ。米倉は国民の抗議に恐れをなしたか、来訪の目的を告げても一切反応しなかった。

米倉弘昌よ、出て来い!記者会見で机を叩きながら東電擁護を演じたあの勢いはどうした?

「国の全面支援は当然だ」と嘯いた醜悪を我々国民は忘れていない。甚大な被害を受けている福島県民、風評被害を浴びている農業関係者は、米倉の経済道義をかなぐり捨てた暴走をもはや放置できない。

電源三法という血税で成り立っているのが原発、その原発の恩恵に最も与って来た企業が住友化学だ。原発はいわば国策事業、それ一体となって成長した来た住友化学の会長から、経団連会長としての米倉から、我々国民は未だ謝罪の一言も聞いていない。

重大事故に対する反省、お詫びすら出来ないまま、なおこれ以上の原発増設に固執する米倉は経済テロリスト・原発マフィアと断言していい。

尖閣諸島を侵略するシナへの迎合、移民1000万人計画の推進などなど、米倉と経団連の売国・守銭と化した暴走を放置してはならない。

(↓ 画像クリック拡大)

閑静な住宅街の中を抜け米倉宅へ

日本人を切り捨てて我が国をシナ人へ売る移民計画は絶対粉砕だ!

経済道義をかなぐり捨てた子商人(こあきんど)には天罰を祈るしかない

呼び鈴を、米倉さん!お早うございます!

我々を恐れてか反応しないので、思わず「米倉、出て来い!」

仕方がないので、門前で抗議行動を取らざるを得ない

抗議文の投函、米倉が企業の社会的責任を果たすまで何回も来る必要がある

制服警官が運転する怪しい車、我々の到着を確認すると消え去った

【動画】『東電擁護の子商人』経団連の拝金・亡国主義に鉄槌を!

 http://www.youtube.com/watch?v=epGkZEm_Tww

【靖国】 終戦記念日活動【本日!】

英霊に汚名を着せるな!
<河野、村山談話の白紙撤回署名活動> 

本日 8月15日(月) 07:30から 
場所:九段下(東京理大前)

 

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保守派の「熱気」とは!


尖閣死守、竹島奪還を叫ぶ保守派の「熱気」とは!

先日11日(木)、文京区民センターで展転社、維新政党・新風などの主催による「新藤・稲田・佐藤の三議員を断固支持する緊急国民集会」が開かれたとのこと。

下記の案内と報告があった。

↓ 新風による案内
http://shimpuoshirase.sblo.jp/article/47162578.html

↓ 花うさぎさんのブログでの詳細報告
http://hanausagi2.iza.ne.jp/blog/day/20110812/

それによると「会場は満杯」で、「クーラーが効かなかったほどの熱気」に包まれていたそうだが、この「熱気」の異常さを驚かずにはいられない。

 つい数ヶ月前の5月、KKRの土地売却がシナに対する領土の切り売りだとして問題になった。

主権回復を目指す会と幾人かの心ある国民は、問題の深刻さを声高く訴え、KKRの土地売却反対を訴えた。一週間に亘る抗議、国会議員らへの売却阻止を呼び掛けたが反応は皆無であった。

契約日が5月25日と判明した当日、KKR前に馳せ参じたのは僅か10人にも満たなかった。韓国まで出向く新藤・稲田・佐藤の三議員も千代田区のKKRには姿を見せなかった。


シナへの領土切り売り糾弾が4人だけとは。
昨日まで尖閣死守、竹島奪還を叫んでいた愛国保守は何処へ(5月23日 財務省前)

日本領土が抵抗せずにシナに奪われた。

平成23年5月25日、これは日本の歴史に銘記される恥辱の記念日の一つとなった。愛国を語る「保守派」が国会議員を含め、シナによる我が国領土侵略を、知っていながら指を銜えて見物した。実に許し難き不作為が公然と行われた恥辱の日だった。

11日(木)、文京区民センターの会場を埋め尽くした「保守派」のうちの一体何人が、『KKR問題』に関心を持って、実際に何らかの行動を起こしていたのか?
会場を埋め尽くした彼らの「熱気」とは一体何なのだ?

 下記は主権回復を目指す会の愛国陣営と国会議員への檄だった
 ↓         (参考:5月22日投稿記事 http://nipponism.net/wordpress/?p=958


シナ大使館への土地売却は領土の切り売りだ

<国会議員に告ぐ!領土を死守する国民を直視せよ>

平成22年5月22日
主権回復を目指す会

国会議員の使命、義務とは何か

それは「国民の生命・財産・安全、そして名誉を守る」ことである。ただ守るのではなく、死守するのである。死守、つまり己の命をかけることを指す。そのため我が国民は数千万円の議員歳費、さらには一ヶ月当たり百万円の新聞図書費まで負担している。実に巨額な税金で養われているのが国会議員なのである。

異論はあろうが、国益を担い、使命と義務を果たすのであれば決して高くもないだろう。

外交上シナ大使館はシナの領土、それに隣接する土地を取得することは紛れもない“領土”の拡張である。現有3,300坪に落札した1,700坪が加われば巨大なシナ領土が都心に誕生することになる。

現行のシナ政府はわが日本民族とは敵対関係、シナは我が国にとって侵略国家、この度の“領土”の拡張を侵略と言わずして何と言えばいいのか。シナが落札した物件は土地ではなく、紛れもない我が国領土なのである。
上記の道理を掲げてわずか数人であるが、落札無効と売却破棄を求めて(KKR)に乗り込み、抗議を強行した。落札無効と売却破棄は「国民の生命・財産・安全、そして名誉を守る」ためであった。

国会議員が果たすべき使命と義務を、名もない国民が数人でこれを代行したのだ。

国会議員は何処にいるのか、何処を彷徨っているのか。

この現実を国会議員は直視せよ!売却が成立した後に、知らなかったでは売国奴、税金ドロボーの誹りは免れ得ない。

これは国会議員に対する国民の警告である。


かくすればかくなるものと知りながら男子の本懐示すときあり

5月25日が契約期限日だ。心あるならば日本国民よ、座死するな!

下記は「新藤・稲田・佐藤の三議員を断固支持する緊急国民集会」に寄せられた投稿である。

投稿
目前の侵略と闘わない「保守派」の熱気

本当の“戦い”の何たるかを自問自答せよ

主権回復を目指す会 児島謙剛  

自民党の国会議員3名による韓国(以下、南朝鮮と称す)の鬱陵島訪問計画(※南朝鮮側が空港で入国拒否)に対して、多くの「保守」派が「3議員の勇気ある行動に感謝!」といった具合に手放しで“絶賛”していた。まあ、大方の予想通りと言ったところか。

どうせやるからには、入国拒否を通告されても頑として聞き入れず、強制送還を振りかざされても頑強に抵抗し続け、最後は「身柄を拘束」されるぐらい徹底的にやって頂きたかったものだ。それはさておき、いくら竹島が我が国固有の領土と叫んではみても、現実には南朝鮮が実効支配している。そうした状態を考えれば、領土問題として内外に“紛争地域化”のアピールを示したことは効果的であった。

これこそ、南朝鮮側が最も嫌がる状況であり、そのための一石を投じたことに意義があった。

しかし、だからと言って、3議員の所属する自民党が「よくやった!」という結論には全く至らない。
むしろ、外交分野における自民党の『政権担当能力』の欠落ぶりが改めて証明されたと認識すべきであろう。

そのことを詳細に報じているのは「保守」派に大人気の産経新聞である。

【鬱陵島】 弱腰浮き立つ自民執行部
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110802/stt11080201330001-n1.htm

>視察団の一人はこうこぼした。
>「1月の党大会で領土問題への意欲を泣きながら示したのは谷垣さんではなかったのか。すぐにひよってしまうなんて情けない。もはや訪韓問題というより自民党執行部の問題だ…」

【鬱陵島視察】 「テロリストと同じで拒否、理解超える」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110802/plc11080223550040-n1.htm

>佐藤正久参院議員は「韓国の対応は領土問題を先送りしてきた自民党のツケではないか」と述べた。
>むしろ「問題は自民党だ。党の姿勢が問われる」(西田昌司参院議員)など3人の渡航許可を取り消した党執行部への批判が噴出した。

他でもない自民党の当人たちが一番よく分かっていることなのだ。

我々が2月20日に実施した『竹島デモ』における「決議文」の中で述べた通り、南朝鮮による実効支配の強化に対して、何ら有効な対策を打つことなくこれを傍観し、事態をここまで悪化させた張本人は紛れもなく歴代の自民党政権であり、先ず責めを負うべきは過去の自民党政権下における数々の無為無策に他ならない。
http://www.shukenkaifuku.com/past/Kougiseimei/2011/110220.html

「保守」派は、この点に目をつぶって、民主党政権批判のみに問題を摩り替え、矮小化しているが、今から2年前、平成21年(2009年)9月の政権交代後に、突如、南朝鮮が竹島への実効支配強化を開始したわけではなかろう。

こう言うと、「保守」派は「自分たちが支持しているのは、自民党執行部ではなく、個々の保守系議員たちだ」などと強弁するのかもしれないが、自民党の政権復帰を願う事実上の“自民党応援団”と化している以上、上記の点から目を背けてはならないのである。

さて、我々が領土の問題を語る時、どうしても言及を避けては通れないことがある。今年5月のKKR(国家公務員共済組合連合会)によるシナ中共大使館への土地売却問題である。
この問題が表面化した後、上記3議員をはじめ、彼らを強力に支持している「保守」系の団体は、遂に最後まで組織を挙げた抵抗の動きを見せなかった。我々にとっては、忘れようにも決して忘れられない出来事だ。

南朝鮮が実効支配している竹島はもちろん、我が国の実効支配下にある尖閣諸島でさえ、容易に近づくことはできない。洋上遥か彼方にある島嶼の「奪還」や「死守」を叫ぶことは、ある意味とても簡単だ。眼前に、差し迫った現実の戦いが存在していないからである。
だが、KKRの問題に関しては違う。我々が生活する東京都心の一等地、港区麻布の土地=すぐ目の前の「領土」がシナ中共に奪われようとしていたのだ。それを本気で「死守」しようと思えば、それこそ身を挺して戦わなければならなかった。
その現実の戦いから「保守」は見事なまでに遁走した。いざという時に、戦うべき時に、戦わない「保守」の姿が露呈したのである。

今回の鬱陵島問題でも、また南朝鮮国民による恒例の「反日パフォーマンス」が展開された。画面を通じて伝わってくる有り様は、確かに反吐が出るような狂乱ぶりである。
だが、物事には、もう一つの異なる側面があることも忘れてはならない。見方を変えれば、あの南朝鮮の下劣さは「情念」の爆発であり、自国の物と信じて疑わない領土を死守しようとする決死の“戦い”の姿であるとも称することができる。

一方、著名な某「保守」系の団体は、今月3日、上記3議員の行動を受け、南朝鮮大使館に対する抗議街宣を実施したそうだ。伝え聞くところによると、素直に警察の指示に従い、例によって「5人1組」で粛々とシュプレヒコールを上げていたらしい。いつもながら、実に「日本人らしい、正々堂々とした」姿であり、つくづく感心させられる。
「韓国人は下品だ」「日本人と違って民度が低い」と嘲笑しながら悦に入っている「保守」派は、己の民度の高さなるものに酔い痴れている暇があれば、自国の領土を奪還、死守するための本当の“戦い”の何たるかを、虚心坦懐に自問自答すべきであろう。

今回、鬱陵島訪問を計画した3議員には、継続した行動の実践を求めたい。来年の2月22日=『竹島の日』に合わせて、再度の訪韓を試みるぐらいの徹底的な姿勢が必要である。くれぐれも「保守」派に取り入るための一過性の政治パフォーマンスで終わらせてはならない。

3議員の一人、稲田朋美議員は「保守」派から「日本初の女性総理大臣に!」などと持て囃されている。
しかし、我が国が真の主権を回復できず、事実上の占領状態が継続した恥辱の節目である4月28日を「主権回復記念日」なる呼び名として祝おうとしている。こんな明後日(あさって)の方を向いた主張に与などしているゆえ、KKR問題に関しても、何か具体的な行動を取っていたという話は聞こえてこない。

従って、我々とは相容れない立場の政治家である。「保守」派のように、こうした政治家を嬉々として礼賛することなど到底できはしない。

とにもかくにも、目の前の領土を死守すること無くしては、尖閣の「死守」も竹島の「奪還」もあり得ない・・・これは事実であり、道理である。

KKR問題に沈黙した愛国「保守」諸氏には、改めて猛省を促したい。

【告知】 終戦記念日活動【靖国】

英霊に汚名を着せるな!
<河野、村山談話の白紙撤回署名活動> 

日時:8月15日(月) 07:30から 
場所:九段下(東京理大前)

 

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原爆の日に覚える違和感

投稿   原爆の日に覚える違和感

東京裁判史観とは日米安保に依存する精神の堕落だ

外国人犯罪追放運動 小野寺秀一  

今から66年前、昭和20年8月に広島と長崎に計2発の原子爆弾が投下され、人類史上最大規模の大虐殺が行われた。

歴史から永久に消え去ることのないこの世紀の大虐殺を実行したのは、中共やロシアではなくアメリカ合衆国であったことは言うまでもない。

私が原爆の日に思うのは、明らかな戦争犯罪に対して恥じぬどころか、むしろ原爆投下を正当化し正義を語るアメリカの欺瞞に対する激しい怒りである。そして、そのアメリカに自国の安全保障(すなわち自らの生存)を委ねて憚らない日本の凋落ぶりに、私は危機感とともに違和感すら覚えるのである。

 ← 浦上駅:プラットフォームで黒こげ
  となった母子(爆心地から南約1km)

所謂終戦という歴史の大転換期を迎えた8月になると、我が国は独特のムードに包まれ、多くのメディアや言論人達が一斉に、「あの記憶を風化させない為」「あの惨劇を繰り返さない為」あるいは「過去の日本は愚かであった」…等々の発言を繰り返す。

これらの所謂自虐的な言論が幅を利かせるのは毎度のことであり、いまや我が国の夏の風物詩のようでさえある。そういった自虐的刷り込みの繰り返しによるものかは定かでないが、所謂東京裁判史観はいまだ風化することもなく、多くの国民の中で健在である。

しかし、多くの無辜の民が虐殺されてから66年が経った今日、あれほどの殺戮をおこなったアメリカに対する日本国民の怒りは失われているのではないだろうか。

また、これは私の思い過ごしであればよいのだが、現代の日本人がアメリカに対して抱いている感情は、『怒り』ではなく『憧れ』でさえあるように私には思えてならない。

この『憧れ』こそ東京裁判史観ではないのか。断じて風化させてはならないのが民族の怒り、それを喪失した日本の精神的退廃を、無残にも惨殺された方々は何と思うのであろうか。

   弟の亡骸 (なきがら) を背に火葬の順番を待つ少年 →
             (写真:ジョー・オダネル)

たとえ自虐史観に浸った日米安保体制下で毒され、日本がアメリカの精神的奴隷に堕したのだとしても、世紀の大虐殺を行って恥じないアメリカに対する日本民族の怒りは永遠に風化させてはならないはずである。

しかし、我が国の状況は目を覆わんばかりの惨状といえるのではないだろうか。

自虐に染まる『左』の思考の歪さを嘲る保守陣営が、所謂東京裁判史観からの脱却を勇ましく唱えつつも、アメリカ依存の現体制を容認している様はまさに矛盾に満ちており、我が国の抱える病が深刻なレベルにあることを示しているように思える。

いまや日本人は民族の怒りすら失い、自らアメリカに媚を売るまでに堕してしまったのである。愛国を唱える者達ですら愚かな幻想を抱いており、歪んだ日米安保体制の妄信からいまだに脱却することもままならない。

アメリカの戦争犯罪を徹底的に糾弾し、原爆によって無慈悲に殺害された先人の恨みをはらすべき愛国者が、自国の生存をアメリカに委任しつつも、「反日極左」達を罵倒し悦に入る様は醜悪そのものである。この有様では、現代日本を席巻しているのは反吐が出るほどの偽善であると言わざるを得ないが、そうした声はあまり聞こえない。

しかし、私はやはり原爆の日のありように違和感を覚えてならないのである。これほどまでに堕落を極めた民族が挙行する原爆の日の祈りによって、果たして犠牲者の魂が癒されるというのであろうか。

祈りによって救済されるべきが、祈る己の魂であってはならないのである。

原爆の日に祈るのであれば、幻想に漂う心地よさに溺れ自堕落に浸ってはならないし、さらに愛国を唱えるのであれば、受け容れがたい現実であっても正視しなければならない。

同盟関係にある現状でさえ無差別殺戮を正当化し、謝罪意思の欠片すら見せないのがアメリカなのである。

そのアメリカが、怒りを失い精神的に服従した日本との同盟関係を果たして対等と考えるであろうか。我が国固有の領土である尖閣諸島、竹島、北方領土に対する現在進行形の侵略に対して沈黙を決め込むアメリカが、シナやロシアの侵攻から日本を死守するという確証がどうして得られるのであろうか。

対シナには最悪を想定できても、対アメリカには最良しか適用できないのであればそれは妄信以外の何ものでもない。安全保障とは最良を想定せず、最悪を想定してこそというのは基本中の基本であるということを忘れてはならない。

つまり、いざとなればアメリカは日本を切り捨てるであろうというごく自然な発想を、我々はアメリカによる原爆投下という惨劇の記憶から導かなければならない。

愛国者であれば、今日の原爆の日のありように違和感を抱くべきである。

所謂東京裁判史観、すなわち虚構の平和からの脱却を果たし、自主独立を獲得しようとするならば、日本は歪んだ日米安保体制による搾取機構から脱却しなければならないのである。

そうした覚悟を我々が持つことが出来なければ、対等な同盟関係の構築など有り得るはずも無く、アメリカが原爆投下を謝罪することも未来永劫訪れないことを知るべきである。

日本人自身が、原爆の日が持つ意味を風化させてはならない。歴史を忘却した国家が衰退し、怒りを喪失した民族は滅びゆくのが自明の理だからである。

日本人であるならば、非道な原爆投下によって一瞬で焼き尽くされた同胞の無念と、黒い雨に打たれ悶え苦しみ亡くなられた先人の絶望と悲しみを永遠に忘れてはならない。
先人が受けたその苦しみと悲しみ、あるいは絶望を日本民族の不滅の怒りと昇華させ、それを矜持としてアメリカの欺瞞と戦うことこそが生存している日本人の使命なのである。

その戦いを貫徹する国民の宣誓こそ、真の『平和宣言』として犠牲者に捧げるべき日本民族の誓いなのである。

 

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『長崎の鐘』は日本人を欺く偽善の鐘である

長崎の恨みを忘れないぞ!

原爆犠牲者へ誓う!原爆を投下される過ちを二度と犯さない


弔意を示さぬままの星条旗へ向かって「ルース大使はこの写真を直視せよ!」

広島への原爆投下三日後、米国は長崎へ8月9日、広島型と異なる原爆(プルトニウム型)を投下した。推定人口24万人の内、約7万4千人が焼き殺され、被爆の後遺症で更に7万人以上が亡くなっているが詳細な数は今もって定かでない。

9日、主権回復を目指す会は政経調査会と共に米国大使館へ抗議行動を実施。管轄の赤坂署は米国大使館一帯を“封鎖”し、3人以上の抗議文提出並びに写真撮影を禁じた。
哀しいかな、これが米国の支配下におかれた屈辱の現実である。

6日同様、この日もまた、我が保守派陣営による米国大使館への抗議行動は皆無であった。8月6日、9日、原爆投下の恨みを忘れて抗議行動さえ出来ず、核武装など笑止千万ではないか。8月6日、9日と愛国保守派は何処をさまようのか。

(↓ 画像クリック拡大)

「長崎の恨みを忘れないぞ!」

米国の言いなりになって、「原爆投下」を糾す声を排除する赤坂警察署

日本人よ!同胞に加えられた米国の残虐を直視せよ

遺体を見せつけられ沈黙する警察

非戦闘員に対する残虐に米国は一分の申し開きも出来ない

原爆犠牲者の恨みを絶対に忘れてはならない

民族の恨みを込めて米国大使宛の抗議文を読み上げる

全ての原爆犠牲者に弔意を示して

広島の原爆死没者慰霊碑の石室碑文に、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と記されてある。主語の欠けた脈絡のない碑文は偽善であるとして、心ある国民の厳しい批判を浴びて来ているが。

ところで、広く日本人に名曲として親しまれた歌謡曲に『長崎の鐘』があり、被爆地である長崎を歌っている。その歌詞は広島の碑文以上に偽善だが批判を受けないでいる。

下記はその4番目の歌詞であるが、これは広島の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と瓜二つと言っていいのではないか。しかしながら、その歌詞が広島の碑文のように批判されたことを未だ知らない。

『長崎の鐘』(昭和26年)

作詩 サトー・ハチロー  作曲 古関裕而

  こころの罪を うちあけて
  更け行く夜の 月すみぬ
  貧しき家の 柱にも
  気高く白き マリア様
  なぐさめ はげまし 長崎の
  あゝ 長崎の鐘が鳴る



長崎の鐘

ご存知のように古関裕而は作曲家として戦前、『露營の歌』『暁に祈る』『若鷲の歌(予科練の歌)』などで、大東亜戦争の大義を我が日本人に鼓舞してきた音楽家で有名である。戦後も『とんがり帽子』『君の名は』『ひるのいこい』『オリンピック・マーチ』などなど、童謡から歌謡曲、管弦楽曲までとこれほど日本人に親しまれ、また名曲を世に残した音楽家はいない。

炭化した同胞の遺体、性別も分からないまま火傷で苦悶する女子高生・・・、これらを直視せよ!

サトーハチローと古関裕而は、何ら科(とが)もなく焼き殺された同胞に対して、一体何の「こころの罪を」うちあけろと言いたいのか。

非戦闘員の殺戮を目的にした原爆投下で同胞は焼き殺された。この犯罪に対して米国には弁明の余地など一点すらない。サトーハチローと古関裕而は、一体誰に対して「こころ罪」をうちあけろと言いたいのか。焼き殺された無辜の民は、誰に罪の許しを乞い願えばいいと言うのか。

『長崎の鐘』、これは広島の碑文と瓜二つだが、サトーハチローの詩を、古関が有り余る才能でもって見事に美しいメロディーで修飾した。偽善に甘美な曲調が修飾され、『長崎の鐘』は名曲として日本国民に定着している。

故に、今に至るまで、この偽善極まるメロディーに日本人は酔い痴れたままでいる。名曲であるからして、その偽善の度合いは計り知れず、日本人を痴呆状態にする効果は広島の碑文どころではない。

『長崎の鐘』は原爆犠牲者をなぐさめ、はげますのではなく、戦後日本人を欺く偽善の鐘である。

【動画】長崎の恨みを忘れるな!米国の原爆投下に時効はない

youtube
http://www.youtube.com/playlist?list=PLB9A52E80357643A3

ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15264337

ustream
http://www.ustream.tv/recorded/16546028

抗 議 文
長崎の恨みを忘れないぞ!

米国は“人道に対する罪”を謝罪し、真の「自由と正義」を実証せよ

駐日米国大使 ジョン・ルース殿

平成23年8月9日  
主権回復を目指す会 政経調査会  

66年前の今日、昭和20年8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。
この1発の兵器によって、長崎市の推定人口24万人のうち、7万4千人もの人々が一瞬にして死に追いやられた。
我が国が戦闘能力を完全に喪失していた状況下において、広島に続き、再び非戦闘員に対する無差別殺戮が繰り返された。

この蛮行が、「ウラン原爆」とは異なる「プルトニウム原爆」の威力を確かめるための実験目的、さらに、対日参戦に動いたソ連を牽制するための政治外交目的の下に行われたことは明白である。
己の身勝手な目的遂行のために、我が国の幾万、幾十万の無辜の民を平然と死に至らしめた米国が、まさしく悪逆無道の鬼畜以外の何者でもないことは言を俟たない。
米国が如何に自己の正当化を画策しようとも、この人類史上最悪の戦争犯罪=“人道に対する罪”が歴史上から消し去られることは絶対に無い。

今さら言及するまでもなく、米国が振りかざす「自由と正義」なるものは、偏に独善と偽善の産物である。それは、米国自身の血塗られた歴史のみならず、経済関係ばかりを優先させ、シナ中共による侵略、虐殺、人権弾圧を黙認し続ける現在の米国の欺瞞に満ち溢れた姿勢によって証明されている。

ゆえに、シナ中共の現実の侵略と対峙している我が国にとって、背後でシナ中共と結託している米国は決して同盟相手になり得ない。
日米同盟の幻想を妄信する国内の「保守」派と明確に一線を画す我々は、日米安保という名の虚構を打破し、真の主権回復を目指して邁進していく。

我々日本国民は、改めて米国に宣告する。


米国は、「世界の警察」を気取った覇権主義を直ちに止めよ

米国は、己が犯した極悪非道な戦争犯罪     
          =“人道に対する罪”を直ちに謝罪せよ

米国は、シナ中共の侵略、虐殺、人権蹂躙を糾弾し、     
          真の「自由と正義」を直ちに実証せよ

 

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